明るくあたたかい文章が人気のメッセージ「関真士のAmazing LIFE」を、WEBコラムとして不定期でご紹介しています。今回は第15号の全文をご紹介します。気に入ったコラムは、このページの最後から、無料でダウンロードしてA4用紙にプリントアウトできます。気に入ったらぜひプリントして周りの方に手渡してください。
子育てには、必ず終わりがある。夫婦関係には、終わりがあってはならないが、子育ては、終わらなければならない。
それでは、何がどうなったら「子育てが終わった」と言えるのであろうか。
子どもが一人暮らしを始めた時、就職、結婚…などがそれを実感する時かもしれない。しかし、それらは子育てが終わった結果としてもたらされるもので、それ自体が終わりのしるしではない。
子育て終了のしるしは、子どもが人格的自立を果たした時である。
つまり、親の意向ではなく、子どもが自分で考え、自分で判断し、自分で選ぶことのできる「自己」を確立し、自分の人生に責任を持てるようになった時ということだ。
だから結婚できるし、一人で生活も始め、社会人としてやっていけるようになる。
ただし子育ての難しいところは、子どもの人格は確かにあるが、未成熟なので育てる必要があるということだ。新生児は、潜在的には人格を有しているが、自分で考え、判断し、選ぶことはできない。だから親の人格が子どもの人格の代わりをして補う必要がある。そのころは、子どもの人格はゼロ、親の人格が100のようなものである。しかし、子どもの自我が芽生え、人格が成長を始めると、その比率は変わってくる。
この親が子どもの未成熟な人格をどこまで補うか、3歳の子どもと12歳の子どもとでは、かなり違うはずだ。子どもの成長に応じて、その比率を変えていく。早すぎても遅すぎてもいけない。そこが子育ての勘どころであり、難しいところだ。
ある子育ての会の中で参加者に考えていただいた。「あなたの子どもが目の前にいます。あなたは両手を広げています。次のシーンはどうなりますか?」ほとんどの母親が、子どもが飛び込んでくると答えたが、ある母親は、子どもは背を向けて行ってしまうと答えた。その母親の子どもは16歳くらいで、今まさに親の手元を離れ自立の最終段階に入っていたのだ。私の次男が5歳くらいのころ、友達と遊んでいて、遠くから私を見つけると弾丸のように走って私に飛びついてきた。私がしっかりと抱きしめると、すぐにまた弾丸のように友達の輪に戻って行った。しばらくすると、もうそれはなくなった。
私たちの両手は、子どもを受け入れ、抱きしめ、守るためにある。また同時に広げ、手放し、送り出す両手でもある。
子育ての勘どころとは、我が子の成長に合わせて、ある時は受け入れ、ある時は手放し、親の対応を変えていくことにある。
そのようにして、20年くらいかけて子どもの人格を100パーセント尊重し、親が子どもの未成熟な人格を補っていた部分はゼロになる。これでめでたし、めでたし。子育てが終わったと言えるのだ。
子育てとは、子どもを親の願った通りにすることではなく、子どもが自分の願いを持ち、子どもが願う人生を歩めるように、子どもの人格を確立することだ。だからこそ、子育ての最中に、正しく考え、正しく判断し、正しい選択ができるように、その基準をしっかりと教えることが大切になってくる。子どもに対して自信をもって「自分の人生を生きなさい」と言って送り出してあげられる親でありたい。
その基準としてお勧めしたいのが、聖書である。聖書に記されている基準とは、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛することだ。神を愛し、自分を愛し、隣人を愛するという基準に立ったら人生は大丈夫だ。安心して送り出すことができるだろう。
子育てに夢中の時には、なかなか先を考えるのは難しい。でも、子育てには終わりがあることを知ろう。ゴールは必ずある。
1964年東京生まれ。荒れ果てた10代を過ごし、20歳の時にコックの仕事で渡米し、クリスチャンとなる。その後、27歳で東京聖書学院を卒業し牧師となる。40歳の時にハワイにあるホノルル・キリスト教会の牧師となり現在に至る。家族は、愛する妻と4人の子供。趣味は、料理と茶道、サーフィン。
Illustration by Rutsuko
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