明るくあたたかい文章が人気のメッセージ「関真士のAmazing LIFE」を、WEBコラムとして不定期でご紹介しています。今回は第18号の全文をご紹介します。気に入ったコラムは、このページの最後から、無料でダウンロードしてA4用紙にプリントアウトできます。気に入ったらぜひプリントして周りの方に手渡してください。
仕事柄、結婚式の司式をすることが多々あるが、その式の中で必ず話すことがある。
それは「結婚式とは、愛を学ぶ専門学校への入学式です」ということだ。
二人が結婚を決めたからには、もちろんそこには愛があるだろう。しかし考えてみたいことは、愛はあっても、愛し方を知っているかどうかということだ。
愛があるのと、愛し方を知っている、ということは別のことなのだ。愛があるから、当然、自分の語ること、行うことは、愛として相手に伝わっていると思いがちだ。しかし案外、相手にはそれが愛として伝わっていないことがある。それも多々ある。
夫婦の歩みとは、一生涯、愛とは何か、愛するとはどのようなことかを学び続ける、愛の専門学校の生徒のようなものだ。
私たち夫婦は、今年(2021年)で結婚して丸29年を迎えた。
初めての出会いは、牧師になるための学校である神学校であった。
妻は一年先輩だったが、私は入寮日の日、実に爽やかに元気に「こんにちはー!」と寮のドアを開けた。しかし、そこは女子寮のドアだった。しかも、ちょうどその玄関に女子寮の舎監が立っていて、真っ赤な顔をして追い払われたのだった。凹んだ…。
しかし、その舎監の横にたまたま立っていたのが、将来の妻となる女性だった。彼女は、初めて私を見たその時に「あっ、この人だ!」と分かったというのだ。
そんな劇的な出会いを経て、私たちは神学校卒業と同時に結婚した。
話が飛んだが、私には結婚に関してとても強い理想があった。それは“平和な食卓”というものだ。理由は明白で、私の育った家庭には、それがなかったからだ。
しかし、私が平和な食卓という“良い理想”を持った動機は、こんな争いの家庭は絶対に持ちたくないという“悪い動機” だった。理想が、結びたい実だとすれば、動機は種にあたる。結ばれる実を決めるのは、種である。リンゴの種を蒔いて、キュウリの実が結ばれることはあり得ない。
新婚時代のある日の食卓で、その実が結ばれてしまった。目の前の妻が、不機嫌な顔したのだ。普通なら「どうしたの?」と問いかけると思うのだが、私にはそれができない。なぜなら食卓は平和でなければならないからだ。そこで私は、妻を責めるように「どうしてそんな顔をするのか」と言ってしまう。すると妻は、自分の気持ちを受け止めてくれないのだから、よけいに不機嫌な顔になる。そうなると、平和の食卓という理想が崩れていくのだから、私は焦ってさらに妻を責めてしまうのだ。
結果、理想とは真逆の、絶対にあってはならない“争いの食卓” という状況がもたらされてしまう。これは、悲劇である。
実を決めるのは、種なのだ。
誰でも、愛があるから結婚して夫婦となる。しかし、愛し方はどうだろうか。私は、妻を愛しているからこそ、平和な食卓をつくることが愛することだと思っていた。
しかし、それは自分のエゴであった。妻への愛し方としては、「どうしたの?」と心を傾けて聴いてあげることだろう。
劇的な出会いを経て、愛し合って結婚した私たちだったが、愛し方においては、たくさんの学びが必要だった。
そのような行き詰まりの中で、私は自分を振り返ってみた。いったい私は、どこで夫としての妻の愛し方を学んだのだろうか?
その時、自分は学んだことがないとう事実に気がついた。私の身近には、模範にできる夫婦がいなかった。
それに気づいた時から、愛し方を学ぶという夫婦の旅路が始まった。今もその途上にある。私は今も、神に自分自身が愛されることを通して、愛することを学んでいる。
1964年東京生まれ。荒れ果てた10代を過ごし、20歳の時にコックの仕事で渡米し、クリスチャンとなる。その後、27歳で東京聖書学院を卒業し牧師となる。40歳の時にハワイにあるホノルル・キリスト教会の牧師となり現在に至る。家族は、愛する妻と4人の子供。趣味は、料理と茶道、サーフィン。
Illustration by Rutsuko
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