明るくあたたかい文章が人気のメッセージ「関真士のAmazing LIFE」を、WEBコラムとして不定期でご紹介しています。今回は第25号の全文をご紹介します。このコラムは、このページの最後から、無料でダウンロードしてA4用紙にプリントアウトできます。気に入ったらぜひプリントして周りの方に手渡してください。
愛されることは、許されることだ。
実に多くの人が、心の中に「罪悪感」を持っている。みんなと同じでないことに、個性的であることに、自分の意見を述べることに、休むことに、人の負担になることに、中には自分が生きていることに…。
このような罪悪感の元は、自分の存在価値を他人の目、世間の目に依存しているところにある。
もし私たちが、自分の目を横ではなく、上に向けたら、つまり神さまに向けたら、まったく違った自分が見えてくる。
あなたは、神に造られた最高傑作品なのだ。誰が何と言おうと、神の目には、あなたは高価で尊い存在なのだ。
あなたは、あなたのままでいい。神は、あなたの存在そのものを許してくださっている。それが神の愛なのだ。
愛されることは、赦されること。許しと赦しは、まったく違う意味がある。
私たちは、確かに罪を犯してしまうことがある。先に述べた「罪悪感」は、持つ必要のないものである。しかし、もし私たちが、本当に罪を犯したのであれば、そこで「罪意識」を持たなければ、それはおかしなことになってしまう。罪は、許可されるものではない。
なぜなら、その罪を罪として処理しないと、その罪は残り、人生を蝕み、自分自分も他者も、傷つけることになるからだ。
赦しとは、刑罰が終わったという意味がある。つまり、罪を罪として罰したので、もはや罪の力は失われ、罪に支配されることはなくなったということだ。
イエス・キリストは、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。」と祈られた。
このイエスの十字架は、私たちが受けるべき罪の刑罰を、イエスが身代わりとなって受けてくださったことを意味している。
私たちの罪は、イエスの十字架によって赦されたのだ。だからもう罪に支配されることはないのだ。
神は、私たちの存在を許し、私たちの罪を赦す。どちらも神の愛である。
愛することは、許すことだ。その人の存在をあるがままで肯定することだ。
愛することは、赦すことだ。その人の罪を赦すことだ。
この「赦すこと」については、もっと詳しく考えてみたい。
人の罪を赦すことは、その罪を許すことではない。存在は許すが、罪は許してはならない。つまり見過ごしたり、許容したり、肯定することではない。赦しは、罪を罪として認める。ただし、その罪に対する裁きを、自分ではなく、神にお任せすることなのだ。
もし、あなたに対して罪を犯した人が、心から謝罪してくれたらいいが、なかなかそううまくはいかないことが多い。
それは、まるで人生の不良債権を抱え込むようなものだ。こちらは証文を片手に取り立てようとするが、相手からは満足する支払いが得られない。その不良債権は、利子が積もって、さらに重たくなる。このような不良債権を抱えていては、人生は前に進んでいかない。
赦すとは、その不良債権を、神に渡してしまうことだ。それは、取り立てる権利を放棄することになる。
そもそもが、それを罪と判定するのも、その罪をどう扱うかも、神の領域である。私たち人間は、神の立場に立ってはならないのだ。
さらに、赦しと感情の癒やしは、必ずしも同時ではない。赦しは一回的な決断だが、感情の癒やしには時間が必要だ。しかし、赦すからこそ、感情の癒やしも進んでいく。
私たちは、許されたように許し、赦されたように赦していきたい。
1964年東京生まれ。荒れ果てた10代を過ごし、20歳の時にコックの仕事で渡米し、クリスチャンとなる。その後、27歳で東京聖書学院を卒業し牧師となる。40歳の時にハワイにあるホノルル・キリスト教会の牧師となり現在に至る。家族は、愛する妻と4人の子供。趣味は、料理と茶道、サーフィン。
Illustration by Rutsuko
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