明るくあたたかい文章が人気のメッセージ「関真士のAmazing LIFE」を、WEBコラムとして不定期でご紹介しています。今回は第28号の全文をご紹介します。このコラムは、このページの最後から、無料でダウンロードしてA4用紙にプリントアウトできます。気に入ったらぜひプリントして周りの方に手渡してください。
人類から祈りが失われたことはない。古代から、近代、そしてポストモダンと呼ばれる現代に至るまで、どの時代、どの民族にも祈りがある。喜びの日も苦難の日も、平和の時も戦争の時も、どんな状況にあっても人類から祈りが失われたことはない。
祈る姿は、とても清く、美しい。子どもの祈りから、王様の祈りまで、それは人が神を求める姿だから。
しかし、祈りといっても、その内容はさまざまだ。願い事、感謝、会話のような祈り、そして他者のための祈りがある。
特に私たちが、心から誰かのために祈るなら、それはまさにその人を愛することになる。
なぜなら、私たちが誰かのために祈る時、私たちはその人を想いながら、時間を使い、心を使っているからだ。「いのちとは、時間である」と聞いたことがある。誰かのために祈る時、それは二度と返ってこない、人生にたった一度しかない、そのいのちという時間を使っているのだ。
祈ることは、愛することなのだ。
私たちは、愛する者のために祈る者でありたい。一日のうちに時間を決めて祈るのもいい。思いたったときに祈るのでもいい。ひざまずいて、座って、歩きながら、家事をしながら、運転をしながら、私たちは、どんな時でも祈ることができる。
また、愛する者が苦難の中にある時には、思わず神に叫んで祈ることもあるだろう。心配で不安で、どう祈ったらいいか分からないような時には、うめくように祈ることもあるだろう。祈りには、感謝の祈りもあれば、嘆きの祈りもある。
もしあなたが、まだ他者のために祈ったことがないのなら、まずは、次のように祈ってみてはどうだろう。
「天の父なる神様。○○さんが、どうか今日も一日平安に過ごすことができますように。神様の祝福が豊かにありますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」
両親、夫、妻、子ども、家族のために祈ろう。友人のために、知り合いのために、思い浮かぶ人のために、祝福と平安を祈ろう。
ここで一つ考えたいのは、その祈りは、どうしたら聞かれるのかということだ。
日本では「清水の舞台から飛び降りる」という言葉がある。それには、一か八か、いのちをかけて実行する、というような意味合いがある。
実は江戸時代、京都の清水寺の舞台から飛び降りるということが実際にあったらしい。当時の民間信仰の中で、もし飛び降りたら、その願い事がかなうというのだ。ある文献によると、その高さは13メートルで、234人が飛び降り、34人が亡くなったということだ。
そこまでしてかなえたい願い事とは?
もし、愛する者が病気で死にそうだとなったら、飛び降りることもあるだろうと思う。
しかし、そのように命を捨てることを要求し、もし飛び降りたら願い事をかなえてあげようという、その祈りの対象とは一体何なのか?
聖書に記されている真の神は、まったく正反対だ。真の神は、私たちの祈りを聞くために、天から降って来てくださった。私たちが飛び降りるのではなく、神の方が飛び降りて、まさに十字架で命を捨ててくださったのだ。
私たちの祈りは、この十字架で死なれたイエス・キリストのゆえに神に届くのだ。その信仰の表現として、祈りの最後に「イエス・キリストの御名によって祈ります」と言う。そして「アーメン」とはヘブル語で「真実」という意味がある。
あなたを愛する神は、あなたの祈りに耳を傾けていてくださる。愛する者のために祈ろう。
1964年東京生まれ。荒れ果てた10代を過ごし、20歳の時にコックの仕事で渡米し、クリスチャンとなる。その後、27歳で東京聖書学院を卒業し牧師となる。40歳の時にハワイにあるホノルル・キリスト教会の牧師となり現在に至る。家族は、愛する妻と4人の子供。趣味は、料理と茶道、サーフィン。
Illustration by Rutsuko
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