こんにちはTaroです。皆さんは聖書を全部読んだことはありますか?
分量も多いし全巻読み通すのは中々大変だと思うのですが、聖書に出てくる幾多のトピックスの中には「あっ、あれ知ってる!」というものも結構あるのではないかと思います。
今日は、新約聖書でイエス・キリストが話された『たとえ話』の中から、何となく聞き覚えのありそうなお話を2つほどご紹介しようと思います。
目次
プロテスタント教会の信徒で新生宣教団の職員。前職から印刷に関わり活版印刷の最後の時代を知る。 趣味は読書(歴史や民俗学関係中心)。明治・江戸の世界が垣間見える寄席好き。カレー愛好者でインド・ネパールから松屋のカレーまでその守備範囲は広い。
たとえ話とは、何か伝えたいことをわかりやすくするために『架空の出来事に置き換えてする話』と言えると思います。
イエス・キリストも神の国の奥義を伝えるためにいくつものたとえ話をされました。語る相手は、弟子たち、群衆、そして律法学者など宗教的指導者と言われる人たちなど様々でしたが、その人たちが理解しやすいように、農夫、漁師、羊飼い、日雇い労働者、取税人、主人、しもべ、王、父親、息子、金持ちと貧乏人などを登場させ、日常生活の様々な出来事を題材に語っているのが特徴です。
まず、『放蕩息子のたとえ』から見ていきましょう。下記が聖書のテキストです。
また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。
ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。
何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。
そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。
彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。
立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。
もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。
むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。
このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、
ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。
僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。
兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、
兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。
それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。
すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。
しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。
(ルカによる福音書 15:11~32)
このたとえ話は、イエス・キリストが罪人や取税人(当時ユダヤ社会では忌み嫌われる存在)などと親しく交わり、教えをしていたことに対して、宗教的指導者であった律法学者が非難した状況の中で語られたものです。
放蕩息子のたとえの前には、失われた1匹の羊の話や、失った1枚の金貨の話がなされていますが、これらも有名なお話です。
ストーリーはわかりやすいので説明は不要だと思いますが、ざっと見ていきましょう。
まず遺産の生前分与を弟息子が父親に申し出て、それに父親が応じています。
そしてそれを持って自由を得たいと思ったのでしょうか。他国へ旅立ち放蕩三昧となり、お決まりの転落人生となりました。
財産を使い果たした後、その地に飢饉(ききん)があり、惨めな状態に陥ったところで我に返り、悔い改めて使用人の一人としてでも受け入れてもらおうと父の家に帰って行きました。
ところが、父親は遠くから彼に気づいて迎えに出てくれました。おそらく毎日のように気にして帰ってくる方角を見ていたのではないでしょうか。遠くからその息子の姿を見て「哀れに思って走り寄り…」と父親の感情が記されています。
そして息子が悔い改めの言葉を語りだしますが、父親はそれを聞き終わるやいなや、しもべたちに最上の着物や指輪、履物を用意させ、子牛を屠って宴会を開くようにと指示するのです。つまり、「使用人としてなら受け入れてやろう」というのではなく、「息子として扱う。その身分と尊厳を保証する」というものでした。
一方で、面白くないのが父親の元で忠実に仕えてきた兄息子です。事情を聞いてみると、放蕩の限りを尽くし落ちぶれて帰還した弟を父親は赦すばかりか、宴会まで開いているという。激怒した兄は家に入ろうともしなかったといいます。その気持ちわかりますよね。
父親は、兄をなだめようとしました。「死んでいたような息子が帰ってきたんだよ。喜ぶのが当たり前だよ。そして、お前はずっと私と一緒だったではないか」と。
ここで話は終わっています。
お父さんは神様のことだというのは当時この話を聞いた人たちも、現代の私たちにもよくわかりますよね。
そして、放蕩息子は「罪人」や「取税人」たち、また神を離れている人々のことでもあります。
イエスは彼を非難した律法学者たちに、「どんなに罪を犯した人でも神様は愛してくださる」ということをはっきりと語られました。
このお話でお父さんの愛はよくわかるのですが、やはりお兄さんの気持ちを考えるとどこかモヤモヤしますよね。おそらく、損得勘定でするならば、「弟息子は好きなことをしたい放題して、困ったら親に泣きついた身勝手な奴」となり、兄息子は「自分は損している」と感じたかも知れません。
しかし、よく考えるとお兄さんは父親と生活を共にする(関係を持ち続ける)というかけがえのない『富』を得ていたことは間違いないと思います。
生活も守られ、おそらく父親から様々な知恵ももらっていたのではないでしょうか。一方で弟息子は父親と断絶したことが取り返しのつかない失敗であったことを、孤独と死の恐れの中で痛いほど思い知らされていたのです。
次に『ぶどう園の労働者のたとえ』を見ていきましょう。どんなお話でしょうか。
「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。
彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。
それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。
そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。
そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。
五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。
彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。
そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。
ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。
もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。
そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。
自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。
自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。
このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。
(マタイによる福音書20:1~16)
イエスと弟子たちが、天の御国(神が支配する祝福の世界)について問答する中で、イエスが語られたものです。
こちらの話も説明は不要だと思いますが、あらましを見ていきましょう。
ぶどう園の主人が、早朝から労働者を募って現場に送っていきます。その時の約束が日当1デナリでした。どうやら労働者の1日分の金額のようです。現在価値で1万円ほどでしょうか。
次に9時、12時、3時、終了間近の5時と市場に出かけて、働き口のない人たちをそれぞれぶどう園に送っていきました。彼らには「相応の賃金を払うから」と語っていて具体的な額を示していません。
1日の労働が終わり、賃金を精算する時が来ました。後から来た者たちから支払いを始めます。
すると、なんと1デナリが支払われました。その次の人たちも、その次の人たちも、そして最後に最初から働いていた人たちの支払いがなされました。彼らは約束以上の給金があると期待しましたが、やはり約束通りの1デナリでした。
当然、早朝から働いた人たちから不平の言葉が出てきます。
それに対して主人の答えは「あなたとは約束通りだったでしょう」というものでした。
労働の対価としての賃金という観点からしますと、当然不公平ということになりますね。
でも、労働の機会が均等だったのかどうかということになりますと、最初から働けた人は安心を始めから手に入れており、最後にようやく働けた人は絶望と不安の1日を過ごしていたということになり、あわれみ深い主人はその面では公平に扱ったと言えるのかもしれません。
これらのたとえ話は、全く別なお話で一見関係のない話と思われますが、よく見ると結構共通するところがあり、その共通点に目を凝らしていくと、聖書の中心テーマといいますか、キリスト教の重要なポイントが見えてくるような気がします。
父親と弟息子、兄息子の関係から、また、主人と朝から働いた人、夕方から働いた人との関係から、聖書の重要なメッセージを見ていきましょう。
どちらのたとえ話でもあわれみを受け、明らかに窮地を脱して喜びへと変えられた人々がありました。『放蕩息子のたとえ』の弟息子であり、『ぶどう園の労働者のたとえ』では途中からあるいは最後の最後にようやく雇ってもらえた人たちです。
弟息子は誰の目から見ても人の道を外れて、極道を尽くした上で、ボロボロで帰ったもので、父親のこのような迎え方は1ミリも期待していなかったことでしょう。また、ぶどう園の労働者は、特に夕方雇われた人などは「相当の賃金を払うから」という約束だけで働いていたので、まさか最初からの人と同じ1デナリ(1日分の賃金)をいただけるなど思っていなかったに違いありません。彼らは身に余る恵みに感謝したに違いありません。
どちらのたとえ話でも、不平を言う人が登場します。『放蕩息子のたとえ』では兄息子がそうであり、『ぶどう園の労働者のたとえ』では最初から働いていた人です。この世の常識では当然の不満と言ってもよいでしょう。
彼らもおそらくは、弟息子が帰って来ず自分と父親だけの関係で生きていたなら、それはそれで受け止めて生活していたかもしれません。また最初から働いていた労働者も、途中からや最後の最後に来た人たちが同じ労賃を貰うのを見なければ、自分と主人との関係だけで納得していたに違いありません。
彼らには、初めから父との関係や主人との関係が与えられていて、安定や安心感が保証されていたのです。
不幸なことは、恵みにあずかる人々を目にすることで、彼らの中に「自分たちは相応の資格がある。しかし彼らにはその資格がない」という思いが湧き上がってきたことではないでしょうか。
どちらのたとえ話にも、もうひとりの主人公があります。それは父親であり、ぶどう園の主人です。どちらも間違いなくあわれみ深く慈愛に富んだ存在です。
特に『ぶどう園の労働者のたとえ』の主人をよく見ると、本当は労働などどうでも良かったのではないか。むしろ、どの人にも労働の対価をあげたかったのではなくて、1日の生活費をあげたかったのではないかと思えてくるのです。
また、『放蕩息子のたとえ』の父親にとって最も大切だったのは、息子が何をしてきたかではなくて、生きて帰ってきたこと、再び関係が回復することだったのではないかと思えるのです。
父親と弟息子、兄息子の関係から。また、主人と朝から働いた人、夕方から働いた人との関係から、聖書の重要なメッセージが見えてくるようです。
通常、悪には罰が伴い、努力はその努力に応じて報いられるというのは美しいことであり、人間社会の原則と言えると思いますが、救いに関してそれは当てはまるのでしょうか。
実は、唯一絶対にして全く聖なる神様の目から見ると、私たち人間は倫理的人間も前科何犯の人間も変わらぬ罪人であり、努力云々で天の御国に受け入れられるレベルでは無いというのが聖書の語るメッセージです。
神様の救いは、行いの対価として獲得できるものではなくて、一方的な愛によって与えられるものだというのですね。
次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。
悟りのある人はいない、神を求める人はいない。
すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。」
(ローマ人への手紙3:10~12)
「自分には救いを頂ける資格がない。それなのに、受け入れてくださるというのならこんな有り難いことはない」というのが、イエス・キリストを取り巻いていた罪人や取税人といわれる人々の気持ちだったのではないでしょうか。彼らには自分に「拠って立つ」ものが何もないだけに神の愛がストレートに心に刺さったことでしょう。
一方、「自分たちは相応の資格がある。なぜなら決め事もしっかり守り、行いにも気をつけているから。しかし彼らにはその資格がない」というのが宗教的指導者たちの立場だったようです。しかし原罪をもつ私たち人間は、どこまで努力してもこれで大丈夫といえる状態にはなれないので、本当の安らぎは来ないことでしょう。おそらく「自分らは彼らよりマシ」という相対的な評価をもって、いくらかの安心材料にしていたかも知れません。
神様は赦しの神。その愛は無条件の愛と言います。つまり人に条件をつけないということなのです。有り難いですね。
「信仰義認」という言葉を世界史や倫理社会の授業などで耳にされたことがあるかと思いますが、これは聖書から導き出されたキリスト教の重要なテーマでして、今日ご紹介した2つのたとえ話はそのことをよく示していると思います。
つまり、神の国(神が支配しておられる祝福の状態)に私たちが入るために必要なことは、行いを積んで神に認めてもらうことではなくて、神が用意してくれた祝福を感謝して受け取り、心に迎えることだったのですね。
神が私たちのために用意してくれた、神の国の扉を開ける鍵。それは、イエス・キリストが私たちの負の遺産(罪)を身代わりに背負って十字架にかかり死んでくださったことを信じることだけなのです。
それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
(ローマ人への手紙3:22~24)
いかがでしたか。神の国は遠いところにあるのではなく、受け取るか受け取らないかにあることがおわかりになったと思います。あなたに神の国の祝福がありますように。
では。
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