こんにちは、ノイです。
この記事を書きながら、幼い頃、近所の川べりで集めた数珠玉を針で一本の糸に一粒ずつ通しながらブレスレットを作ったことを思い出しました。
聖書は約40人もの著者が様々な時代に記述した文書を集めたものですが、イエス・キリストという一本の糸で見事に結ばれています。
『ルツ記』もイエス・キリストという糸で貫かれた聖書の一部です。
今回は、登場人物のボアズに焦点を当てながら『ルツ記』に記されたイエス・キリストに関する事柄を読み解き、そこに秘められた神のメッセージを探ります。
●「前編」の記事はこちら
●イエス・キリストについてはこちらをどうぞ。
日本海を見て育つ。 幼い頃、近所の教会のクリスマス会に参加し、キャロルソングが大好きになる。 教会に通うこと彼此20年(でも聖書はいつも新しい)。 好きなことは味覚の旅とイギリスの推理小説を読むこと。
ナオミはまた彼女に言った、「その人はわたしたちの縁者で、最も近い親戚のひとりです」。
(ルツ記2章20節)
落穂拾いをしながら偶然行きついた畑の所有者がボアズであったことを伝えたルツに、ナオミは驚きながらこう答えました。
新改訳聖書では、ボアズについて「近親の者で、しかも、買い戻しの権利のある親類の一人」と訳しています。
聞き慣れない言葉ですが、この「買い戻しの権利」の意味を理解することで、『ルツ記』をより深く読み解くことができます。
地は永代には売ってはならない。地はわたしのものだからである。
あなたがたはわたしと共にいる寄留者、また旅びとである。
あなたがたの所有としたどのような土地でも、その土地の買いもどしに応じなければならない。
あなたの兄弟が落ちぶれてその所有の地を売った時は、彼の近親者がきて、兄弟の売ったものを買いもどさなければならない。
(レビ記25章23~25節)
これはイスラエルの民がカナンの地※ に入植した際に与えられた掟(おきて)です。
神様は民が自分の土地を「神から与えられたもの」(「嗣業(しぎょう)」と言います)として管理し、代々継承していくことを望まれました。
貧しさから土地を売らなければならなくなった場合、所有者の嗣業を守るため、所有者の近親者が代金を代わりに負担して土地を取り戻せるというのが「買い戻しの権利」です。
※イスラエルの民は、エジプトを脱出してから40年荒野を放浪したのち、ついに約束の地である「カナンの地」にたどり着きました。
モアブから戻ったナオミは、亡き夫エリメレクの畑を売ろうとしており、エリメレクの親族であったボアズにもその畑を買い戻す権利がありました。
ルツに求婚されたボアズは次のように答えます。
たしかにわたしは近い親戚ではありますが、わたしよりも、もっと近い親戚があります。
今夜はここにとどまりなさい。朝になって、もしその人が、あなたのために親戚の義務をつくすならば、よろしい、その人にさせなさい。
しかし主は生きておられます。その人が、あなたのために親戚の義務をつくすことを好まないならば、わたしはあなたのために親戚の義務をつくしましょう。
(ルツ記3章12~13節)
早速、ボアズは「もっと近い親戚」にナオミの売ろうとしている畑を買い戻す気があるかどうか確認します。
その親戚は「私が買い戻しましょう」と一旦は応じますが、続けてボアズから「あなたがナオミの手からその地所を買う時には、死んだ息子の妻であったモアブの女ルツをも買って、死んだ者の名を起してその嗣業を伝えなければなりません」(ルツ記4章5節)と言われると、「そこまではできません」と前言撤回します。
この「ルツをも買って、死んだ者の名を起して」というボアズの言葉は、申命記に定められた次の法律から出たものです。
兄弟が一緒に住んでいて、そのうちのひとりが死んで子のない時は、その死んだ者の妻は出て、他人にとついではならない。
その夫の兄弟が彼女の所にはいり、めとって妻とし、夫の兄弟としての道を彼女につくさなければならない。
そしてその女が初めに産む男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名をイスラエルのうちに絶やさないようにしなければならない。
(申命記25章5~6節)
この親戚は、ナオミの夫エリメレクも二人の息子も亡くなっているため、買い戻した土地がゆくゆくは自分のものになると考えたのかもしれません。
しかし、エリメレクの息子マロンの跡継ぎを残すことのできる嫁ルツの存在を知ったとき、もしルツとの間に第一子しか生まれなかった場合、申命記の定めによって嗣業に残るのはエリメレク一族の名前だけになってしまうかもしれないと思い、慌てて手を引いたのです。
その親戚の人は言った、「それでは、わたしにはあがなうことができません。
そんなことをすれば自分の嗣業をそこないます。あなたがわたしに代って、自分であがなってください。わたしはあがなうことができませんから」。
(ルツ記4章6節)
さらに踏み込んだことを言うと、ルツのことが語られるとき、いつも決まって名前の前に「モアブの女」という言葉が加えられていたように、ルツはユダの人々から異邦人として区別される存在でした。負担が大き過ぎたこともありますが、ルツがモアブ人であったことも買い戻しを拒んだ一因と思われます。
さて、諸々の問題がありながらも買い戻しの権利の義務を引き受けたボアズとは、一体どのような人物だったのでしょうか。
実は、ボアズの母は異邦人でした。そのことが次の箇所からわかります。
アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。
アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、エッサイはダビデ王の父であった。…(略)…ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。
(マタイによる福音書1章1~16節)
マタイの福音書に記されたイエス・キリストの系図には、サルモンとラハブの間に生まれた子どもがボアズだと書かれています。
母親のラハブはイスラエル人と敵対関係にあったカナン人の遊女でしたが、創造主なる神への信仰を持ち、家族と共に救われたことが『ヨシュア記』に記録されています。
異邦人の母を持つボアズだからこそ、他国からやって来たルツのことが他人事とは思えなかったのかもしれません。
畑で麦を刈る労働者たちに「主があなたがたと共におられますように」と声をかけ、初対面のルツに向かって「どうぞ、主があなたのしたことに報いられるように」と語りかけるボアズの姿は、彼が常に神を意識して生活していたことを示しています。
そして、ルツの求婚を受けたボアズのとっさの応答に、それは如実に現れています。
ボアズは言った、「娘よ、どうぞ、主があなたを祝福されるように。
あなたは貧富にかかわらず若い人に従い行くことはせず、あなたが最後に示したこの親切は、さきに示した親切にまさっています。
それで、娘よ、あなたは恐れるにおよびません。
あなたが求めることは皆、あなたのためにいたしましょう。
わたしの町の人々は皆、あなたがりっぱな女であることを知っているからです。
たしかにわたしは近い親戚ではありますが、わたしよりも、もっと近い親戚があります。
今夜はここにとどまりなさい。朝になって、もしその人が、あなたのために親戚の義務をつくすならば、よろしい、その人にさせなさい。
しかし主は生きておられます。
その人が、あなたのために親戚の義務をつくすことを好まないならば、わたしはあなたのために親戚の義務をつくしましょう。朝までここにおやすみなさい」。
(ルツ記3章10~13節)
「さきに示した親切」とは、ルツが神を信じてユダの地に移り、姑に仕えてきた一連の行為を指していると思われます。
ボアズは、ルツがまだ若く、同年代の男性と再婚できるにもかかわらず、決断したとおりにナオミと運命を共にし、ユダの地で暮らしを立てていこうとするルツの誠実さを見ていたのでしょう。
そして、ナオミのために年の離れたボアズとの結婚を選択したことについて「さきに示した親切にまさっている」と褒めているのです。
『ボアズの畑のルツ』ユリウス・シュノル・フォン・カロルスフェルト
ボアズはルツに好意を持っていたと思いますが、感情だけではなく信仰の視点を持ってルツを見、接していることも見落としてはならないと思います。
ボアズの母ラハブは、生きた神の力強さを目の当たりにした当事者の一人です。ラハブの体験は当然ボアズにも伝えられたことでしょう。
神を頼って生きるルツにも神ご自身が応えられることをボアズは信じていたと思います。
だからこそ、自分の懐に飛び込んできたルツに対して「近い親戚が義務を果たさなかったときは、私がいるから大丈夫」と言うと同時に「主は生きておられます(すべてを計らっておられますよ)」と語ったのではないでしょうか。
ルツを娶(めと)ることを拒み、買い戻しの権利を放棄した親戚とボアズとの違いは何か。なぜリスクを負いながらもボアズは進んで贖い(身代金を支払って、その身を買い取ること)の責任を引き受けたのか。
また、ルツがナオミと共に苦難を背負うことを選択したのはなぜか。
その答えが、『ルツ記』の根底に響いている神のメッセージです。
ルツもボアズも、神への信仰とともに相手を思う気持ちがあったからこそ犠牲の行為を選択しました。
愛は、相手を思うゆえに行われるときに、その真実さ、純真さを明らかにします。
イエス・キリストは十字架に掛けられる前に、次の言葉を残されました。
人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
(ヨハネによる福音書15章13節)
ボアズの犠牲の行いは、イエス・キリストが行った十字架の贖いの業の雛形とも言われます。
ボアズから何世代も経て誕生したイエス・キリストは、これ以上ない形で神の愛を体現しました。
それは、私たち一人ひとりの罪という負債を、身代わりに十字架という刑罰を受けることで、自らの「命」をもって完済してくれた(買い取ってくれた)ということです。
その愛は、全ての人に向けられています。
『ルツ記』は、このイエス・キリストへと繋がる家系に組み入れられたモアブの女ルツのお話です。
神は国籍や身分、家柄などに関係なく、ご自分を信じてより頼んだルツを全人類の救い主の系図に加えられました。
ここに、「神は人を分け隔てなさらない」という『ルツ記』に秘められたもう一つのメッセージを見ることができるのです。
神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。
それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。
ここに愛がある。
(ヨハネの第一の手紙4章9~10節)
わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
(ローマ人への手紙1章16節)
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