こんにちはハトコです。
ここ数回、教会で使われる「専門用語」を取り上げてきました。今回はちょっと毛色が違いますが、聖書に出てくる言葉の「預言者」を見てみたいと思います。
皆さんはこの「預言者」という言葉をご存知ですか?
普通の生活ではあまり使いませんよね。TVなどで予知能力を披露する方々もいますが、それとは違います。ずいぶん昔に『ノストラダムスの大予言』という本が大ブームになりましたが、それとも違います。漢字を見ると両者は違っています。「預言」と「予言」ですね。
目次
牧師の家庭に生まれる。田舎でおとなしい子供時代を過ごしたが、高校卒業後に大阪に住んだことで性格が外交的に変わる。大阪の教会で牧師が1か月にわたり語ってくれた十字架のメッセージを聞いて明確に聖書の福音が解るようになった。好きなことは「掃除」「イエス様に従うこと」。苦手なことは「整理整頓」「ホラーやスプラッター系全般」。(「掃除」と「整理整頓」は別物です!)。新生宣教団職員。
「預言者」は主に聖書の旧約聖書に登場する人々です。神から言葉を託されてその時代の王や民衆に神の意思を伝えた人々のことです。神から言葉を「預けられた」ので、「預言者」といいます。
一方「予言者」は先のことを予知して語る人々で、自称予言者だったり、他人からそう言われている人たちです。その予言は当たったり外れたりと信憑性については色々な見方があると思いますが、聖書の「預言者」は自分の思いや考えではなく、神が「こう言いなさい」という「預かった言葉」を語るので、ニセ預言者でもない限り、語ったことは必ず実現するというところが「予言者」と大きく違うところです。
もう一つの特徴は、神からの言葉が正しいと証明するため、神から奇跡を行う力も授かっていたことです。聖書には預言者が行った多くの奇跡が記されています。
神の言葉を預かって民に語るという意味では、聖書の最初の預言者はモーセだと思います。ただ、今回はもう少し時代を進めて、多くの預言者が活躍した「預言者の時代」と言われる時期の預言者たちを紐解(ひもと)いてみようと思います。
旧約聖書に登場する預言者たちが多く活躍したのはBC940年頃からBC400年頃のイスラエルです。これはイスラエル王国が南ユダ王国と北イスラエル王国に分裂する頃から始まります。
イスラエル王国は神に従い神に愛されたダビデ王によって確立され、その子ソロモン王の時代に繁栄を極めました。しかし、ソロモン王が異国の妻たちや多くのそばめたちの持ち込んだ偶像を拝み、唯一の創造主なる神から離れた結果、神の祝福は離れ去り王国は2つに分裂します。そしてソロモン王の後、民を誤った方へ導く多くの悪王が現れ、その結果、民も異国の偶像を拝むようになり創造主なる神から離れていきます。
預言者たちは悪王や民たちに唯一の創造主なる神に立ち返るよう、またこのままでは北イスラエル王国が他国(アッシリヤ)に滅ぼされる(BC 720年)ことや、南ユダ王国がバビロンによって捕囚される(BC 585年)ことについて、神から託された警告の言葉を命の危険を顧みず語り続けました。預言者たちの物語は、その時代の悪王たちとの戦いの歴史とも言えます。
この時代には20名ほどの預言者が登場しますが、彼らの預言や奇跡はなかなか興味深いので、主だった人物を数回に分けてご紹介していきたいと思います。今回は預言者エリヤを取り上げます。
エリヤはBC 870年ごろから北イスラエル王国で活躍した預言者です。対する悪王はアハブ王とその妻イゼベルです(イゼベルはかなりの悪女です)。イゼベルは異国から嫁いできました。そして自分が崇拝する母国神バアルをイスラエルに持ち込み、王や民衆にバアルを拝むようしむけます。このバアルは農業の収穫を増す嵐と雨の神で、人々の多産を可能にする多産神でもあるとされ、バアル礼拝では官能主義を根底に、神殿での儀式的な売春行為もされていたようです。また、恐ろしいことに、バアルをなだめるための捧げ物として、子どもを生贄(いけにえ)として火で焼くことまでしていました。神はこのような忌まわしい偶像礼拝を避けるようイスラエルの民に厳しく命じておられましたが、イゼベルとアハブ王はバアルを神として礼拝したのです。
ギレアデのテシベに住むテシベびとエリヤはアハブに言った、「わたしの仕えているイスラエルの神、主(しゅ)は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」。
(列王紀上17:1)
神は偶像礼拝を続けるアハブ王の元にエリヤを遣わします。それはこの時から3年間の干ばつをもって「雨を支配しているのはバアルではなくご自分である」ことを示すためでした。
エリヤの言葉の通り、この日から3年間は雨も露もない干ばつが続きます。多分イゼベルは嵐と雨の神バアルの預言者たちに祈らせて、雨乞いもしたことでしょう。でも一滴も降らなかったのです。
多くの日を経て、三年目に主(しゅ)の言葉がエリヤに臨んだ、「行って、あなたの身をアハブに示しなさい。わたしは雨を地に降らせる」。
(列王紀上18:1)
最初の預言の後、エリヤはアハブ王から身を隠していましたが、神様から「アハブの元に行き雨を降らせると伝えよ」と言われます。カルメル山がその舞台となります。
それで今、人をつかわしてイスラエルのすべての人およびバアルの預言者四百五十人、ならびにアシラの預言者四百人、イゼベルの食卓で食事する者たちをカルメル山に集めて、わたしの所にこさせなさい。
(列王紀上18:19)
エリヤは「カルメル山の上でバアルとイスラエルの神のため、それぞれの祭壇を築き、牛一頭を薪の上にささげて祈り、祭壇に火が降ってきたほうを真の神としようではないか」と言います。先に450人のバアルの預言者が祈りました。「バアルの神よ、答えてください!」と朝から昼まで叫びましたが何事も起こりません。そこで今度は踊りながら自分の身を刀や槍で血を流すまでに傷つけて叫び祈りましたが、とうとう何事も起こらないまま夕方になってしまいます。
そこでエリヤは立ち上がりこう言います。
「祭壇の周りに溝を掘りなさい。そして4つのかめに水を満たして祭壇の犠牲の牛の上に3回注ぎなさい」。これは計12杯のかめの水を注いだことになりますね。
エリヤはイスラエルの神に「あなたが本当の神であることを示してください」と祈りました。
そのとき主の火が下って燔祭と、たきぎと、石と、ちりとを焼きつくし、またみぞの水をなめつくした。民は皆見て、ひれ伏して言った、「主(しゅ)が神である。主(しゅ)が神である」。
(列王紀上18:38-39)
神はエリヤのたった一度の祈りに答えます。祭壇の水浸しの牛の捧げ物は天から降ってきた火によって焼き尽くされ、溝の水までも舐め尽くしました。本当の神は雨の神バアルではなく、イスラエルの神であると証明されたのです。
エリヤはアハブに「今から雨が降ってくる」と告げます。その言葉通り、空の向こうに小さな雲が現れ、それは次第に大きくなりとうとう空は真っ黒となって大雨が降ってきました。預言者エリヤが語った神の言葉は成就しました。
アハブ王の妻イゼベルはエリヤを憎み、その命を狙っていました。最初の干ばつの預言のあと、エリヤは神に言われて身を隠します。
神は川の近くでカラスにエリヤを養わせます。カラスが毎日朝と晩の2回、パンと肉を運んできたのです。
しばらくして川の水が枯れました。すると神は異国のやもめの元にエリヤを行かせます。
さて、このやもめのところでも奇跡が起こります。
エリヤは出会ったやもめに「水とパンをください」と言いました。このやもめは母一人子一人の母子家庭でした。この地域でも干ばつは激しく、やもめはその時ちょうど薪を拾っていて、それで人生最後のパンを焼いて子どもと二人で食べた後は餓死するしかないと思っていたのです。そこにエリヤが現れ、その最後の食事を食べさせてほしいと頼んできたのです。知らないとは言え、なんと非情な…。
しかし、やもめの現状を聞いたエリヤは言いました。
「主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない」とイスラエルの神、主(しゅ)が言われるからです。
(列王紀上17:14)
この言葉を信じたやもめは、粉と油でパンを焼きエリヤに与えました。すると不思議なことにその後、いくら使っても壺の粉も瓶の油もなくなることがありませんでした。
聖書にはこのように、神に従う人はどんな境遇でも神様がその人を守ってくだると語っている箇所が多くあります。
エリヤがこのやもめの家に滞在している間に、この家の男の子が病気になり死んでしまいます。やもめはエリヤに「私の罪を思い出させるため、私の子を死なせるため来られたのですか?」と詰め寄ります。
エリヤは子どもを自分の部屋に寝かせて神に祈りました。
聖書には、一度死んだ人がよみがえる記録が何箇所かありますが、これもその一つです。
聖書の神は、人に命を与える創造主なる方だからこそ、命を戻すことができるのです。
アハブ王は幼児性を持っていたようで、気に入らないことがあるとイゼベルに言いつけて駄々をこねるということがよくありました。
ある時、アハブ王はナボテという人のぶどう畑が欲しくなりますが、ナボテにとってその土地は他人にゆずることのできない大切な土地だったので断られてしまいます。アハブ王は気分を害し寝床にもぐり込み食事もしません。そこでイゼベルはアハブのため策略を練ってナボテを陥れ、殺してしまいます。そしてその土地を手に入れてアハブ王に渡しました。
その時、エリヤに神の言葉が臨みます。
アハブ王に対しては、
立って、下って行き、サマリヤにいるイスラエルの王アハブに会いなさい。彼はナボテのぶどう畑を取ろうとしてそこへ下っている。あなたは彼に言わなければならない、「主(しゅ)はこう仰せられる、あなたは殺したのか、また取ったのか」と。また彼に言いなさい、「主(しゅ)はこう仰せられる、犬がナボテの血をなめた場所で、犬があなたの血をなめるであろう」。
(列王紀上21:18-19)
イゼベルに対してもこう言われました。
イゼベルについて、主(しゅ)はまた言われました、「犬がエズレルの地域でイゼベルを食うであろう」と。
(列王紀上21:23)
エリヤの言葉どおり、アハブ王は戦場で傷を受け息絶え、その戦車の血を洗った池でその血を犬が舐めたとあります。またイゼベルもこの数年後に起きた反乱で、王宮の窓から落とされ、その遺体を犬が食べるという、見るも無残な最後を迎えることになります。
神は慈愛の方ですが、もし、神の言葉に従わず悪から立ち返ることを拒むならば、その最後は悲しい結果となると聖書は語っています。神様はすべての人が神様とともに正しい道を歩むことを強く望み、旧約の時代に預言者を人々のもとへ遣わしました。そして、今の時代は「聖書」を神の言葉として私たちに与えてくださっています。
このあとも多くの預言者が出てきますが、エリヤは3つの点で他の預言者と違います。
彼らが話しながら歩き続けていると、火の戦車と火の馬が二人の間を隔て、エリヤはつむじ風の中を天に上って行った。
(列王記下2:11)
エリヤは死ぬことなく人々の前で天に引き上げられます。天から送られた火の馬と火の車に乗ってつむじ風と共に天に引き上げられたのです。
聖書の中で死を見ることなく天に上げられたのはエノクという神様に愛された人とこのエリヤ、そしてイエス・キリストだけです。
イエスが地上に来られた新約の時代(AD 30年頃)、イエスは愛弟子3人だけを連れて山に登ります。するとイエスの姿が急に輝きだし、モーセとエリヤが現れます。そして3人でイエスがエルサレムで遂げようとしておられる十字架での最期について話していたと書かれています。
新約聖書の最後にある預言書の黙示録には、モーセとエリヤのような者が地上に現れるとあります。
そしてわたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言することを許そう。・・・預言をしている期間、彼らは、天を閉じて雨を降らせないようにする力を持っている。さらにまた、水を血に変え、何度でも思うままに、あらゆる災害で地を打つ力を持っている。
(ヨハネの黙示録11:3, 6)
モーセとエリヤとは言われていませんが、雨を降らないようにさせるとはまるでエリヤのようです。モーセもまた、エジプトで水を血に変えたので、この二人ではないかと考えられています。聖書の中でモーセは律法を代表する人物、そしてエリヤは預言者を代表する人物と言われています。
いかがでしたか? 聖書では、神が「預言者」を通して具体的に人間にメッセージを送っていたことが書かれています。現代にこのような預言者はいませんが、私たちは聖書全体とその中に出てくる預言者たちの言葉から、神の心を知っていくことができるのではないでしょうか。預言者の中にはこの世の終末を語る人物も出てきますよ。
エリヤの物語は旧約聖書の「列王紀上 17章~22章」にありますので(途中違う話も出てきますが…)読んでみてはいかがでしょう。
次回はエリヤの弟子エリシャを見たいと思います。奇跡の数は預言者の中でダントツです。
お楽しみに。ハトコでした。
エリヤの弟子エリシャについては、こちらをご覧ください
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