こんにちはTaroです。
突然ですが皆さんは神の国、天国などというとどのようなところを想像されるでしょうか。死んだ後に行く場所、苦しみのない楽園、など漠然とした色々なイメージがあるかもしれません。かくいう私自身も明確にイメージがあるわけではありませんが(何せ行ったことがないので)、聖書には神の国にまつわる記述は多いのです。イエス様もたとえ話で色々と語っておられるので、今後、何回かにわたって神の国についてご一緒に探っていきましょう。
今日は、王の宴会にたとえられた聖書箇所から、神の国に招待されるとはどういうことなのかを見ていきたいと思います。
プロテスタント教会の信徒で新生宣教団の職員。前職から印刷に関わり活版印刷の最後の時代を知る。 趣味は読書(歴史や民俗学関係中心)。明治・江戸の世界が垣間見える寄席好き。カレー愛好者でインド・ネパールから松屋のカレーまでその守備範囲は広い。
イエスはまた、譬で彼らに語って言われた、
「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。
王はその僕たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせたが、その人たちはこようとはしなかった。
そこでまた、ほかの僕たちをつかわして言った、『招かれた人たちに言いなさい。食事の用意ができました。牛も肥えた獣もほふられて、すべての用意ができました。さあ、婚宴においでください』。
しかし、彼らは知らぬ顔をして、ひとりは自分の畑に、ひとりは自分の商売に出て行き、
またほかの人々は、この僕たちをつかまえて侮辱を加えた上、殺してしまった。
そこで王は立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
それから僕たちに言った、『婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった。
だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい』。
そこで、僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。
王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、
彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。
そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。 マタイ福音書22:1~14
イエスが十字架にかかる一週間前、エルサレムに入城し、宮で人々に教えておられると、祭司長や民の長老たちがやってきて、「何の権威によって、これらの事をしているのか。誰が権威を授けたのか」と批判的な質問をしました。
彼らは当時のユダヤ人社会の中枢にいたエリートたちでした。
しかし、イエスによる権威ある教え、癒やしや奇跡を目の当たりにし、またイエスが多くの人々を導き称賛を受けるにつれ、自分たちの地位や名誉が脅かされることを恐れたのでしょうか、次第に反発心を募らせていきました。
そんな中でイエスは3つのたとえ話をして、彼らの姿を浮き彫りにしていきました。その3つ目が今日のお話です。
この話の設定は、「天の御国は、王が王子のために設けた結婚披露宴のようなものだ」というものです。
まず、王は招待していた人々のもとへ、しもべを送って迎えに行かせたとあります。これは事前に出欠の意思を確認していたということです。
どうやら当時の宴会では、食事の準備にかかる時間が不安定だったようで、用意が整ったら知らせに行くということをしていたようです。
ところが、不思議にもその時になってみると招かれた人々は来たがらなかったというのです。
そこでもう一度、別なしもべたちを遣わしたところ、気にもかけずに畑を見に行ったり、商売に行ったり、ひどい者になると、しもべに恥をかかせたり殺してしまう者もあったのでした。
失礼にも程があります。現実の世界で王から招待を受けた者がドタキャンをしたり、使者を殺してしまうということなどありえないことです。
ついに王は怒り、兵を出して不届き者たちを成敗してしまいました。
彼らには、王を敬う気持ち、王子を祝福する心が無いばかりか、無関心でありその関心事は身の回りのことばかりでした。そればかりか意識の上では敵対関係にあったと思えなくもありません。
それで王はしもべたちに「彼らはふさわしくなかった。でも宴会の用意はできている。だから、大通りに出て行き、出会った者をみな招きなさい」と言うのです。
元々は「これはと思う人たち」を招いていたはずでしたがそれは叶わず、今度は「誰彼構わず」「手当たり次第」と言わんばかりです。
そこで、しもべたちは条件をつけずに人々を集めたので宴会場は一杯になりました。「悪人でも善人でも」というところが面白いですね。
また、ここでの王の言葉から、「宴会にどうしても誰かを招きたい」「宴会場をいっぱいにしたい」という強い意思を感じます。
一杯になった会場を王が見に来ると、そこに礼服を着ないで来ていた人がいました。手当たり次第集められたので用意ができなかったのでしょうか。いや、そうではありません。
実は礼服は主催者側が用意していて、入る前に渡されることになっていたのです。
「友よ、あなたはなぜ礼服を着ないでここに入ってきたのですか」と王は優しく問いかけましたが、この客は沈黙して答えなかったといいます。それは、王子の披露宴を軽視した態度の現れであったといえるでしょう。
結局この客は外に放り出され、王のふるまいに与ることはありませんでした。
悪人でも出席ができる宴だったのですが、一つだけ条件があったのですね。
イエスがたとえで話した、元々招かれていたのに、王や王子との良きリレーションシップを取れなかった(取らなかった)人々とは、イスラエルの民、ユダヤ人のことを指しています。
旧約聖書を読むと、神様はまず初めにイスラエルを選び、イスラエルを通して神の祝福と救いとが、全世界に及ぶことを計画されていました。しかし残念ながら、イスラエルの民はこの特権を信仰によって受け止めることがなく、不従順な歩みをし続けていたのでした。
神は旧約聖書の時代(イエス誕生以前)に、多くの預言者を遣わして、偶像(人の手による彫像)礼拝や政治の腐敗などへの警告を送りましたが、イスラエルの人々はそれに耳を貸さず、預言者たちに受難を強いてきた歴史がありました。たとえ話に出てくる遣わされたしもべとは旧約の時代の預言者のことです。
また、救い主誕生の預言も繰り返し語られてきたのに、当時のイスラエルの指導者たちはイエスを受け入れませんでした。
このたとえ話の前に(マタイ21章)2つのたとえ話をイエスが語っていますが、この王子の披露宴のたとえと同様に上記をたとえたものといえるでしょう。
彼らは自ら特権を放棄したと言えると思います。
次に招かれた人々、不特定多数ともいえる人々とは異邦人のことですね。我々日本人もそうですが、元来神の選びから外れていて、律法を持たない民のことです。
枠外の人々ということですが、「通りに出て行って」という言葉はそのことをよく表していますね。
元々神はイスラエルを選び、イスラエルを通して神の計画の実現を望んでおられたのですが、その思いにかなった歩みには至りませんでした。そこで神はイスラエルの枠を超えて、神の計画に信仰によって応答する人々を招かれたのです。「悪人でも」というのは、おそらく律法を知らず、守らず、無頓着に生きてきた人たちという意味なのでしょう。
それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人にあたえられるであろう。マタイ21:43
礼服を着るとは何を表しているのでしょう。
先にお話したように、宴会での礼服は当時主催者が用意するものだったようです(人数が多いと大変ですね)。
それなのにそれを着ることを拒んだ人の姿と、その顛末は注目に値します。
これは、神の国に入れられるために、我々側の条件は不要だが、神が用意される「救い」を信仰によって受け取る必要があることを示しています。
具体的にはどういうことか。
神様は私たちの過去がどのようなものであってもそれを問うことはありません。しかし罪は罪として精算されなければなりません。そこで、罪ないお方、イエス・キリストの犠牲(いけにえの代価)によって罪が帳消しにされるという方法を神が用意してくださったのです。これが、宴会で主催者が用意する礼服の意味することです。
私たちの罪はイエスの名に免じて赦され神の国に受け入れられるのです。神の国へのパスポートのようなものですね。
よくクリスチャンが「イエスの名によって。アーメン」と祈るのはそういう意味なのです。
このパスポートを受け取るか否かはどうでもよいことではなく、極めて重大な選択です。
なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、
それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。
すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。
わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。
ローマ3:20~29
わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救いの衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。
イザヤ61:10
ユダヤ人への厳しい言葉が今日とりあげた箇所ではありましたが、神様はイスラエルの民を見放されたわけではありません。神様のイスラエルへの計画は進んでいて、ローマ11章では次のように語られています。
あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。
すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。
まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。
もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。
神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。
しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。
なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。
兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、
こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。
そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」。
ローマ11:18~27
ユダヤ人、異邦人、救いの衣 という観点から神の国に至る道について概観してきましたが、いかがでしたか。
ユダヤ人、異邦人という枠だけではなく、また時代の枠をもこえて、つまり全ての人にこの宴会への招きがあることを知っていただきたいと思います。
受け取るか否かは私たち次第ということだと思います。
あなたに祝福がありますように。
Taro
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