こんにちは、ノイです。
今回から、クリスチャンの偉人について紹介していきたいと思います。
第1回目にご紹介する偉人は、19~20世紀の巨匠アントニ・ガウディです。
未完の大聖堂サグラダ・ファミリアを筆頭に、今でもバルセロナにはガウディの残した鮮やかな色彩の建築物が溢れていますね。
晩年には「サグラダ・ファミリアの工事はゆっくり進むんだ。神というクライアントは、決してお急ぎにならないからね」と話し、全身全霊で神のための建設に取り組んだガウディ。
彼の生涯はいったいどのようなものだったのでしょうか。
目次
日本海を見て育つ。 幼い頃、近所の教会のクリスマス会に参加し、キャロルソングが大好きになる。 教会に通うこと彼此20年(でも聖書はいつも新しい)。 好きなことは味覚の旅とイギリスの推理小説を読むこと。
「私の人生は、まるで小さな布が縫い合わされて出来上がったパッチワークのように思える。日々起こる出来事について、その時は理解できないことがあっても、後になってみると、一歩一歩を神が導かれてきたことがわかる。パッチワークを少し離れたところから眺めると、見事な模様が出来上がっているように」
このお話のように、誰しも自分の人生を振り返るとき、何かしら不思議に思う節々があるのではないでしょうか。
人生は自らの選択が積み重なって作り上げられますが、自分の意思を越えて遭遇する要素も多分に組み込まれています。
ガウディについても、その生涯を紐解いていくと、彼があれほど独創的な建築家として生きるためには、「バルセロナ」という町と当時の時代背景が欠かせない要素であったことがわかります。
そして、ガウディが熱心なキリスト教徒となる過程には、彼のライフワークであった建築が大きな役割を果たしていたことが見えてくるのです。
ガウディは1852年6月25日にスペインのカタロニア州レウスで生まれ、1926年6月10日にバルセロナで亡くなりました。
ガウディの生まれた時代は産業と都市が発展し、人々の生活形態が大きく変化しました。また、貿易の強化に伴う急激な人口増加が起こった時代でもありました。
拡張と改修を迫られたバルセロナもまた、アーバンデザインが実施されるようになります。
このバルセロナの都市的変貌を見通していた資本家や実業家たちは、後のバルセロナ建築大学へと発展する美術クラスを創設し、建築家の育成に着手します。
この時代のバルセロナは、建築家たちに未曽有の都市づくりと建築制作の仕事を用意して待っていたのです。
そして、ガウディもその建築家の一人として大いに才能を発揮することになります。
当時のバルセロナとガウディの関係性について、カタロニアの哲学者フランセスク・プジョルスは次のように表現しています。
「バルセロナの町とガウディのあいだには、目覚めた母胎と、母胎に力を与え不滅化する運命を担った天才との、時の完全な一致と完全な調和が成立するという独特な現象が存在している」。注1)
注1)入江正之「図説ガウディ 地中海が生んだ天才建築家」,河出書房新社,2007年,9頁
ガウディ生誕の地は、バルセロナから南に100キロほど離れたレウスという町で、両親はともに銅細工師の家系でした。
故郷のタラゴナ平野は、葡萄畑やオリーブ、アーモンドなどの果樹畑が広がる肥沃な地で、バルセロナに居住してからもガウディは度々この平野を訪れました。
ガウディは幼い頃から肺感染症やリウマチ関節炎に苦しみますが、彼は、この地の色彩溢れる豊かな自然に囲まれた闘病生活の中で、将来の建造物を形作る感性や発想力を身につけたのでした。
ガウディの建築物には至る所に生命の息吹が感じられ、どこか土の匂いが漂うようなごつごつとしたものから、自然界の目の眩むような美しさを表現したものまで実にさまざまな面を持っていますが、それは少年ガウディの心に詰め込まれた自然の一部なのでしょう。
「芸術におけるすべての回答は、偉大なる自然の中にすべて出ている」
「世の中に新しい創造などない、あるのはただ発見である」
「世界では何も発明されてないんだ。発明家の幸運は、神が全人類の目の前に置いたものを見たにすぎない。何千年も前からハエは飛んでるけど、人間が飛行機を作ったのはつい最近になってからだ」
「自然が作り上げたものこそが美しい。われわれはそこから発見するだけだ」
「自然がわれわれに見せてくれるもので、色がついていないものはひとつもない。植物も地質も地形も動物も、みな多かれ少なかれ色彩によって生命を与えられ、引き立てられている。だからすべての建築物には、色をつけなければならない」
ガウディの残したこれらの言葉からも、自然が彼にとっていかに尊い存在であったのかを想像することができますね。
1868年、16歳のガウディは故郷を後にバルセロナへと旅立ちます。
バルセロナ大学の予科生時代には、港沿いに残っていた中世の街並みを頻繁に探索し、さまざまな建造物から多くのことを学びました。
この頃、ガウディはサンタ・マリア・ダル・マル教会に出会い、深い感銘を受けます。
ガウディお気に入りのこの教会は、地域住民によって14世紀に建てられたもので、「闇と光、石と空気、凝縮と広がりが対象をなす建造物」サグラダ・ファミリアの原型となったのでした。
予科生の後、バルセロナ大学の理学部に進学し、1874年に晴れてバルセロナ建築大学に入学します。
同居していた兄と同じ服を共有するなど余裕のある生活とは言えなかったようですが、少ないお金でいかにおしゃれをするか知恵を絞り、当時のガウディはダンディな男として評判があったそうですよ。
1870年代前半、スペインでは新王国の即位に内乱、共和制の誕生とその崩壊に伴う君主制の復活と目まぐるしい時代の変化が続きます。
徴兵されていたガウディも政治が安定した後に除隊されますが、待っていたのは共同生活をしていた兄フランシスコの死でした。
同年に母親も失っており、それから3年も経たないうちに姉のロサも亡くなります。1870年代の終わりには、ガウディの家族は年老いた父と、姉ロサが残した幼い娘だけとなっていました。
もともとキリスト教への興味は薄かったようですが、愛する家族を次々と失ったガウディは、神に対して強い怒りを覚えるようになり、無神論者となってしまいます。
ガウディには、自分の作品に対する批判は一切受け入れない頑固な面があり、時に教授たちと衝突しながらも、その作品の質の高さと正確さは一目置かれていました。
母の死後、気落ちした父親の代わりに家計を支える身となったガウディは、建築大学の教授の下で働き始め、実践的な仕事をこなすようになります。
理論ばかりの授業より、職人たちと直接仕事に携わる経験は、ガウディにとってずっとためになるものであったようです。
「彼が狂人なのか天才なのかはわらない。それは時が明らかにするだろう」
建築大学の校長は、ガウディが卒業する際、こんな言葉を告げたと言われています。
ガウディを雇い、育てた恩師のひとりであるジュリアン・マルトレールは、生涯の友としてガウディに助言を与え、支え続けました。
信仰心の篤かったマルトレールについて、ガウディは畏敬の念を込めて「賢者にして、聖人」という言葉を残しています。
ガウディは若い頃に3度の失恋を経験し、独身を貫きますが、恩師やパトロン、深い絆で結ばれた友人や同僚たちに恵まれ、彼らの存在は生涯を通してガウディにとって大きな支えとなりました。
「すべての人間に罪があるように、すべての建築にひびがある。これを致命傷にしないことが大切なのだ」
「私の唯一の長所は、私のもとで働いている人々の一人一人が仕事を十分できるよう、彼らの能力を引き出すことにある」
後年、こんなふうに語っていたガウディは、他者とじっくり向き合うタイプの人物だったのでしょう。
1878年に建築家の資格を取得したガウディは、26歳で建築士となり73歳で亡くなるまで、休むことなく建築の仕事に打ち込みました。
信仰と仕事のどちらにおいても妥協を許さない人物だったようです。
ガウディの建築は常に評価されていたわけではなく、時に批判にさらされることもありました。
ガウディが己の信条に従って思い切り建築に打ち込めたのは、彼の作品を評価し、支持してくれる人物があってこそでした。
その人物のひとりがガウディ最大のパトロンであるエウゼビ・グエル・イ・バシガルピです。グエルは裕福な実業家であり、経営者、そして政治家でもありました。
駆け出しの建築家ガウディは、どんなに小さな依頼の品であってもおろそかにせず、全力で取り組みました。
そのひとつがパリ万博博覧会で展示されたクメーリャ手袋店のショーケースです。博覧会に訪れたグエルがこのショーケースに興味を持ったことで、ガウディの存在を知るようになったのです。
グエルとガウディの35年の長きにわたる友情関係は、ガウディの人生で最も大切なもののひとつとなります。
若手建築家としてマルトレールのもとで働いていたガウディに、人生の転機が訪れます。
それは、バルセロナの街外れにある一画に計画されたサグラダ・ファミリアの専任建築家の任命でした。当初、ガウディ自身、この教会に自らの半生を捧げることになるとは思ってもみなかったでしょう。
サグラダ・ファミリアの建設は、キリスト教を基盤とする団体「聖ヨセフ信仰協会」の設立者ボジュゼップ・マリア・ブカベーリャが、産業主義に抗議し、貧困層の人々も救いを求められるような教会制度をつくろうと考えたことから始まりました。
一般市民から寄付された献金によって1882年に工事が始まりましたが、その時の初代主任建築家ビリャールは、教会との意見の食い違いで辞任します。
ビリャールの後任にガウディの師であるマルトレールが候補に挙がりますが、諸事情から彼もまた身を引き、ガウディが新しい主任建築家として抜擢されたのです。
ガウディ31歳の時のことでした。
新しい主任建築家に任命された頃のガウディは、相変わらず無神論者でした。
しかし、サグラダ・ファミリア以外にも、サンタ・テレサ学院などいくつかの宗教建築も手掛けるうち、自ずと神父やカトリック教徒と交流する機会が増え、ガウディのキリスト教に対する思いは段々と変化していきます。
そして、「サグラダ・ファミリアの建築家に自分が選ばれたのは、神のご意志による」と考えるようになります。
神は、信仰から離れていたガウディを、彼の賜物(才能)であった建築をきっかけにして、ご自身に引き寄せられたのです。
聖書を読み、ミサに通ううち、ガウディはいつの日か神そのものを熱心に追い求めるようになります。
ガウディの内面の変化をつぶさに知ることはできませんが、神がガウディの心に触れ、拠り所となっていったのです。
気が付くと、芸術仲間と酒を酌み交わす場に通うこともなくなっていました。
信仰の面でも妥協を許さないガウディは、徹底した菜食主義者となり、周りの人が心配するほどでした。
すっかり変わってしまったガウディを「偉ぶった変わり者」と言う人々もいましたが、親しい友人や支援者にとっては究極の建築家であり、聖人のような存在でした。
ある団体が、最も敬虔な信者としてガウディを選出したとき、「私の名を消してください。私たちは礼拝で“主のみ聖なり”と唱えているではありませんか。完璧なる存在は、神のみなのですから」と話したと言われています。
バルセロナ市によりカサ・カルベットが最優秀建築に選ばれるなど、1900年代初頭にガウディの建築家人生は最盛期を迎えます。
しかし、1906年には、どんなときも支えてくれた父フランセスクと、恩師であり絶大な助言者であったマルトレールが相次いで亡くなり、ガウディは生活面でどん底に落ち込みます。
ガウディに残された家族は姪のロサひとりとなりましたが、6年後に彼女もまた亡くなるのです。
バルセロナもまた大きな変化を迎えます。
1909年、バルセロナや近隣都市の街中で、ストライキを起こした労働者階級とスペイン軍が衝突。暴徒化した労働者たちは街を占領し、鉄道、修道院や教会など破壊しましたが、奇跡的にサグラダ・ファミリアは無事でした。
150名の市民が命を落とし、1週間で軍が暴徒を鎮圧すると、政府はカタルーニャ文化や民族主義を主張する運動を厳しく取り締まるようになります。
当時、57歳であったガウディは、この事件を受けてサグラダ・ファミリア以外のすべての仕事から手を引くことを決心するのです。
この頃から亡くなるまで、ガウディは同じ日課を繰り返しました。
朝はグエル公園の自宅から歩いて教会に行き、ミサに参列した後、サグラダ・ファミリアへ向かいます。
いったん仕事に取りかかると没頭してしまい、食事などで休憩を取ることはほとんどなかったそうです。
夜になれば教会で告解(罪を告白し、神の赦しを受け取る儀式)をし、そして家に帰って眠りにつきました。
ヨーロッパの各国が第一次世界大戦へと向かっていくなか、サグラダ・ファミリアの「誕生のファサード」が段々とその姿を現し始めていました。
1925年には、とうとうガウディはサグラダ・ファミリア内のアトリエにベッドとわずかな身の回りの物だけを持って移り住みます。
部屋の大部分は模型や設計図、未完成の彫刻などが占領していました。
1920年代になると世情の変化から、サグラダ・ファミリアを訪れる人はほとんどいなくなっていました。
ガウディは建築の資金調達のため、托鉢僧のように戸別訪問までしたと言われています。そんな困難な状況でも、ガウディを慕う助手や労働者たちが立ち去ることはありませんでした。
ガウディはこんな言葉を残しています。
もし、ガウディが「自分の」建築物としてサグラダ・ファミリアを作り上げていたなら、自分が生きている間に完成させることにこだわったかもしれません。
しかし、ガウディにとってサグラダ・ファミリアはクライアントである神のものであり、たとえ未完のまま自分が世を去ろうとも、焦る必要はありませんでした。神の手に委ねていればよかったのです。
1926年、73歳のガウディはいつものように仕事を終え、夜の祈りと告解のため教会に向かう途中、市電との接触事故に遭います。
この時のガウディの外見があまりにみすぼらしく、誰もかの有名な建築家だとは思わなかったため、病院への搬送や治療が遅れたと言われています。
いつまでたっても帰ってこないガウディを心配した神父と助手たちが探しに出かけ、病院で見つけたときでさえ、病院側はガウディだと認識していませんでした。
安全ピンと紐の切れ端で留めてあるガウディの古い背広のポケットには、いくつかのハシバミの実と一冊の福音書、そして折りたたんだ紙片が一枚入っており、紙には、大聖堂の「受難のファサード」の素描が走り書きされていました。
激しい痛みのなかで、ガウディは朦朧とした意識のまま穏やかな表情を浮かべて、時折「イエスよ、わが神よ」とささやいたそうです。
病院の廊下には、友人、仕事仲間、かつての依頼主や役人など、彼に一目会って敬意を示そうとした人々の長い列ができていました。
そして、3日後にガウディはついに息を引き取ります。
ガウディの亡骸は、サグラダ・ファミリアに埋葬されることになりました。
ガウディと共に働いた人々や支援者は棺の後ろに付き従い、病院からサグラダ・ファミリアまでの道は何千人もの弔問者によって埋め尽くされました。
どの新聞社も、ガウディの篤い信仰と深い精神性こそが、サグラダ・ファミリアを作り上げたのだと手放しの称賛を送りました。
ガウディが亡くなった時、サグラダ・ファミリアで完成していたのは、「誕生のファサード」の「聖バルナバの塔」だけでしたが、その後も計画は止まることなく、現在も完成を目指して建設が進められています。
いかがでしたでしょうか。
ガウディにとって「建築」は生きることそのものであり、建築は創造主なる神、救い主なるイエスを見上げる信仰となっていたのですね。
最後に、ガウディの残したもうひとつの言葉と、聖書の言葉をご紹介して終わりたいと思います。
「神様のつくった自然から学ぶものでなければ、芸術とは呼べない」
―アントニ・ガウディ
「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」
聖書 詩篇8篇4~5節
【参考文献】
フィリップ・ティエボー「ガウディ 建築家の見た夢」創元社,2003年
入江正之「図説ガウディ 地中海が生んだ天才建築家」河出書房新社,2007年
モリー・クレイプール「僕はガウディ」パイインターナショナル,2017年
●こちらの記事もどうぞ
Copyright © 新生宣教団 All rights reserved.