こんにちは、ハトコです。
聖書に出てくる預言者をシリーズで紹介してきましたが、今回は3人目の預言者として、イスラエルの南ユダ王国で活躍した預言者イザヤを取り上げます。
旧約聖書は「律法」「歴史書」「詩歌」「預言書」に分かれているのですが、これまで取り上げた預言者エリヤと預言者エリシャは、聖書の「歴史書」に登場します。
今回のイザヤは本人が「歴史書」に登場するのではなく、預言書の「イザヤ書」を書いたことによって知られている預言者です。このような預言者を「記述預言者」といいます。
新約聖書には旧約聖書の言葉が多く引用されますが、イザヤ書は詩篇に次いで多く引用がされている書巻です。
●旧約聖書について、詳しくはこちらの記事をご覧ください。
目次
牧師の家庭に生まれる。田舎でおとなしい子供時代を過ごしたが、高校卒業後に大阪に住んだことで性格が外交的に変わる。大阪の教会で牧師が1か月にわたり語ってくれた十字架のメッセージを聞いて明確に聖書の福音が解るようになった。好きなことは「掃除」「イエス様に従うこと」。苦手なことは「整理整頓」「ホラーやスプラッター系全般」。(「掃除」と「整理整頓」は別物です!)。新生宣教団職員。
イザヤについての聖書の歴史的記録はありませんが、イザヤ書そのものや注解書などの諸資料からある程度の人となりがわかります。
イザヤは南ユダ王国のウジヤ王、ヨタム王、アハズ王、ヒゼキヤ王の時代に生きた人で、イザヤ書が文学的に優れていることや王宮に出入りしていることから、高い教育を受けた教養ある身分の出だったと言われています。また神の聖所で幻を見ていることから祭司だったのではという説もあります。結婚もしており妻も預言者で、預言的な意味を持つ2人の子どもの名前がイザヤ書には出てきます。
イザヤが預言者として活躍したのは紀元前740年から紀元前690年頃ですので、実に50年※近くも預言者としての働きをしました。(※年数は解釈によって10年ほど差がある場合もあります)
この間の4人の王の統治は前後が重複している時期も多くあり、政治的には二人の王が同時に統治するなどの混乱もあったようです。
また北イスラエル王国では預言者エリシャの次の預言者ホセアが、アッシリアによる北王国の滅亡について預言し、実際に紀元前722年には北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされています。これはまさにイザヤが生きている最中に起きた出来事でした。
イザヤ書は詩の形式で書かれていますが、所々に歴史の記述も出てきます。預言の部分だけを読むと、誰に何を言っているのかとてもわかりにくいと思いますので、ここでは少しでも分かりやすく解説できたらと思います。
北イスラエル王国の預言者エリヤやエリシャが偶像礼拝をする王たちに警告を発し続けたように、イザヤも南ユダ王国の人々に偶像礼拝から唯一の全知全能なる神に立ち返るよう語り続けました。しかし、南ユダ王国の人々は頑なでした。
そこでイザヤ預言の内容は「神に立ち返らないなら裁きが下る」というものと「しかし、希望もある」という2つが繰り返しなされています。
また、この「希望」のメッセージの中には、将来イエス・キリストが世界の救い主としてこの世に来られるという「メシア(救い主)預言」が多く含まれているのも特徴です。
イザヤ書6章にはイザヤが神様から預言者としての召命を受けた様子が書かれています。非常に美しく印象的な記述です。
ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、互に呼びかわして言った。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。
その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。
(イザヤ6:1~4)
イザヤは神の神殿で栄光の光に包まれた神の御座の幻を見ます。人は神様の顔を直視はできません。見たらあまりの聖さに打たれて死んでしまいます。多分イザヤが見たのはその衣の裾(すそ)あたりだったのではないでしょうか。そして不思議な生き物「セラピム」を見ます。セラピムとは天使の一つで、神の栄光を称え常に神を礼拝することと、人々に対して聖めを行ったり裁きを行う務めを担っています。
神様の栄光を見たイザヤは「ああ汚(けが)れた自分はもうだめだ! 神を見たのだから滅びてしまう!」と叫びます。
その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。
(イザヤ6:5)
しかし、イザヤはセラピムの持つ燃えさかる炭によって聖められます。この燃えさかる炭というのは火のような苦難を受けて十字架で私たちのために死んでくださったイエス・キリストを指しています。
この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。
(6:6~7)
聖められたイザヤに神様の声が聞こえてきました。
わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。
(6:8)
これが神の召命とそれに答えて召命を受け取ったイザヤの献身でした。それはウジヤ王の死んだ年で、この時イザヤはまだ若者だったと思います。この時から約50年にわたって神の言葉を語り続けます。
「ここにわたしがおります。わたしをお遣わしください。」というみ言葉は、多くのクリスチャンが神様に献身するきっかけとなっているみ言葉でもあります。
ここからは、イザヤの人物像ではなく、イザヤが預言した内容を見ていきたいと思います。イザヤ書を章ごとに分類すると大きく2つに分けられます。
1章から39章までがバビロン捕囚前の南ユダ王国に対しての「裁きと警告」の預言。40章から66章までがバビロン捕囚となる将来の人々への「希望と救いと慰め」の預言です。途中の6章はイザヤの献身(神からの啓示と、それに従う決心のこと)、7章はアハズ王の歴史記述、36章から39章まではヒゼキヤ王についての歴史記述があります。前半と後半にも細かい区分がありますが、今回は前半の1章から39章をざっくりと見ていきたいと思います。
ウジヤ王の時代、ユダは繁栄をしていたものの人々の心は神を離れ形だけの礼拝をしていました。1章~12章までは、上辺だけの礼拝をして神に背き続ける人々へ、また、神に頼らず他国の軍事力に頼ろうとする南ユダ王国に対しての裁きと警告が語られます。しかし悔い改める者への回復も語られています。
また、2章や4章には、今の時代の終わりである「終末」の預言となるものが盛り込まれています。
イザヤの預言にかかわらず、聖書の預言には遠い将来の「終末」に関するものが多く見られますが、その多くは預言している本人はそうとは知らずに預言をしていました。今聖書を全体的に読める私たちにはそれが分かるようになってきています。
終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。
(2:1~3)
その日、主の枝は麗しく栄え、地の産物はイスラエルの生き残った者の誇(ほこり)、また光栄となる。そして主が審判の霊と滅亡の霊とをもって、シオンの娘らの汚れを洗い、エルサレムの血をその中から除き去られるとき、シオンに残る者、エルサレムにとどまる者、すべてエルサレムにあって、生命(いのち)の書にしるされた者は聖なる者ととなえられる。
(4:2~4)
特に「終りの日」や「その日」、「主の日」などが「終末」預言のキーワードとなります。また終末に起きることと北イスラエル王国滅亡と南ユダ王国のバビロン捕囚や、周辺諸国への裁きが同時に示唆されている場合もあるようです。
7章14節と9章1~2節、6~7節、11章は「メシア(救い主)預言」といわれるイエス・キリストについての預言で、新約聖書でも引用されている言葉です。
それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。
(7:14)
ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。
(9:6~7)
エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。…その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある。
(11:1~2、10)
11章には「エッサイの株」「エッサイの根」という言葉がありますが、このエッサイとはイエス・キリストの先祖、ダビデ王のお父さんの名前です。聖書にはダビデ王の血筋からイエス・キリストが生まれるという預言が多くあり、この箇所もその一つですが、それはその通りに成就しています。
13章からは周辺諸国への託宣です。「託宣」とは「神がこう言われる」とそのまま告げることです。
まずはバビロンへの託宣ですが、バビロンという名前は新約聖書のヨハネの黙示録にも神に反逆する大都市として出てきます。この13章は南ユダを滅ぼすバビロン帝国への裁きと、終末のときに神によって裁かれるバビロンの2つの姿が垣間見えます。
見よ、主の日が来る。残忍で、憤りと激しい怒りとをもってこの地を荒し、その中から罪びとを断ち滅ぼすために来る。天の星とその星座とはその光を放たず、太陽は出ても暗く、月はその光を輝かさない。わたしはその悪のために世を罰し、その不義のために悪い者を罰し、高ぶる者の誇をとどめ、あらぶる者の高慢を低くする。
(13:9~11)
14章は「バビロンについての嘲りの歌」と言われていますが、12~15節を堕天使である悪魔と悪霊(あくれい)のことだという解釈もあります。
黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った、 『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。
(14:12~15)
15章からはペリシテ、モアブ、ダマスコ、エチオピア、エジプトなどの国々への託宣が述べられていきます。ほとんどが神の契約の民であるイスラエルを攻撃したこれらの国への裁きで、その他にも、国の興亡は神の主権によってもたらされていることも示されています。しかしその中に罪を悔い改め、神を信じ従う人々や立ち返る人々がいることや、国の回復という一筋の光もみられます。神は悪を裁かれますが、罪人が滅ぶのを悲しみ、神に立ち返って祝福を得ることを望んでおられる方でもあるのです。
あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。
(エゼキエル33:11)
21章は「海の荒野についての託宣」とありますが、この「海の荒野」とはバビロンのことです。バビロンはチグリス・ユーフラテス川に挟まれた砂漠地帯で、このように呼ばれていました。この章はペルシャがメディアとともにバビロンを攻め滅ぼすことの預言で、イザヤの預言の200年後に成就します。
22章は再びエルサレム(南ユダ王国の首都)の背く人々に対しての託宣ですが、ここにもメシア預言が宝石のように埋め込まれています。22~25節で、キリストの主権、十字架、復活が語られています。
わたしはまたダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開けば閉じる者なく、彼が閉じれば開く者はない。わたしは彼を堅い所に打ったくぎのようにする。…万軍の主は言われる、「その日、堅い所に打ったくぎは抜け、切られて落ちる。その上にかかっている荷もまた取り去られる」と主は語られた。
(22:22~23、25)
24章から27章は「イザヤの黙示録」と言われています。
24章は終末に起こる神の救いのご計画全体に言及していると言われ、25~26章はその幻を見たイザヤの讃歌です。神の壮大な裁きと救いの御業を幻で見たイザヤは神を賛美せずにはいられなかったのです。
そして、27章は神が自分の契約の民イスラエルを「麗しいぶどう畑」と呼んで繁栄を約束し、神と和解するようにと語られます。また「その日(終末)」にはエルサレムの回復と、そこに正しい人々が集まり神を礼拝することも預言されています。
預言はここでまたエフライム(北イスラエル王国のこと)と南ユダ王国への警告に戻ります。28章ではエフライムが「酔いどれの誇り」や「強い酒に」と言われていますが、これは北イスラエル王国の民が自分たちの見せかけの繁栄に酔っぱらって、迫り来る裁きに無頓着な状態を言っています。また、預言者の真摯な預言を聞き入れることのない北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、南ユダ王国にもアッシリアの厳しい攻撃があると警告します。神はアッシリアがユダを攻撃することを許されますが、それは悔い改めて立ち返らせようとする神の熱情の現れでもあるのです。
30章や31章では南ユダ王国が敵国から救われるために、神に頼るべきところを強国エジプトに援助を求めたことを叱責されています。
彼らはわが言葉を求めず、エジプトへ下っていって、パロの保護にたより、エジプトの陰に隠れようとする。それゆえ、パロの保護はかえってあなたがたの恥となり、エジプトの陰に隠れることはあなたがたのはずかしめとなる。
(30:2~3)
助けを得るためにエジプトに下り、馬にたよる者はわざわいだ。彼らは戦車が多いので、これに信頼し、騎兵がはなはだ強いので、これに信頼する。しかしイスラエルの聖者を仰がず、また主にはかることをしない。
(31:1)
しかし聞き従うときの祝福と回復も繰り返し約束されています。
シオンにおり、エルサレムに住む民よ、あなたはもはや泣くことはない。主はあなたの呼ばわる声に応じて、必ずあなたに恵みを施される。主がそれを聞かれるとき、直ちに答えられる…また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。
(30:19~21)
そして、この回復は32章や35章で、終末のイスラエルの完全な回復の預言へとつながります。
荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。これにレバノンの栄えが与えられ、カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。
(35:1)
36章~39章は歴史的記述です。
南ユダ王国のヒゼキヤ王はめずらしく神に聞き従う王でした。36章~37章はアッシリア王セナケリブが南ユダ王国に攻め入ってきた時の出来事です。セナケリブ王の軍司令官ラブ・シャケは、攻め囲んだユダの城壁の外から大声でそれもユダの人々が分かるヘブル語で、「エジプトを頼みとしても無駄だ! それにお前たちの神に頼っても無駄だ! セナケリブ王に勝てる者などいないのだ! お前たちの神が救ってくれるなどというヒゼキヤ王の言葉にだまされるな!」と叫びます。
その時ヒゼキヤ王は、自分の衣を引き裂いて真っ先に神の神殿へ出向き、神の言葉を聞こうとイザヤに使いを送ります。(衣を引き裂くとは、神の前にへりくだる行為です)
そしてイザヤに言います。「神はセナケリブ王の部下ラブ・シャケの言葉をお聞きになったはずです。彼らは生ける神をそしったのです。神がこのことでどうされるか祈ってください」。すると神はイザヤを通して答えられました。「恐れるな、わたしは一つの噂を持ってラブ・シャケを引き上げさせる」。その言葉どおりラブ・シャケは移動したアッシリア王と落ち合うためにユダを離れます。これで一時の脅威は免れましたが、セナケリブ王は、今度は書簡をヒゼキヤ王に送りつけ「お前が信じている神に力など無い、頼っても無駄だ。私の手から逃げおおせた王も神々もいないのだ」と脅迫します。ヒゼキヤ王はこのときもまた神の神殿へのぼり、神の前にその手紙を広げて神に助けを求め祈りました。
ヒゼキヤは使者の手から手紙を受け取ってそれを読み、主の宮にのぼっていって、主の前にそれをひろげ、主に祈って言った、「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ、地のすべての国のうちで、ただあなただけが神でいらせられます。あなたは天と地を造られました。主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いて見てください。セナケリブが生ける神をそしるために書き送った言葉を聞いてください。
(37:14~17)
神はヒゼキヤ王に、イザヤを通してセナケリブ王の滅亡を預言され、アッシリア軍を神ご自身の手で全滅されました。
それゆえ、主はアッスリヤの王について、こう仰せられる、『彼はこの町にこない。またここに矢を放たない。また盾をもって、その前にこない。また塁を築いて、これを攻めることはない。彼は来た道から帰って、この町に、はいることはない、と主は言う。わたしは自分のため、また、わたしのしもべダビデのために町を守って、これを救おう』」。
主の使が出て、アッスリヤびとの陣営で十八万五千人を撃ち殺した。人々が朝早く起きて見ると、彼らは皆死体となっていた。
(37:36)
この後、38章では病気になったヒゼキヤ王の神へ祈りと癒やし、また癒やされることへのしるしとして、日時計が10度戻るという奇跡が行われた記述があります。
行って、ヒゼキヤに言いなさい、『あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられます、「わたしはあなたの祈を聞いた。あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたのよわいを十五年増そう。…主が約束されたことを行われることについては、あなたは主からこのしるしを得る。見よ、わたしはアハズの日時計の上に進んだ日影を十度退かせよう』」。すると日時計の上に進んだ日影が十度退いた。
(38:5、7〜8)
日時計は1時間に15度進むそうなので、10度は40分でしょうか。太陽が進まず40分後退したということです。地球の自転が逆になったり止まったりしたということでしょうか??
何が起こったにしても、神は自然界をも従わせる事のできるお方だということです。
39章ではアッシリアの政治的支配から抜け出そうとして、南ユダ王国との同盟関係を模索していたバビロンからの使者へのヒゼキヤ王の対応が書かれています。
この時、王は神の宮の富を自分の富のようにバビロンの使者に隠すことなく全て見せました。この後、ヒゼキヤ王の後を継いだマナセ王は北イスラエルの悪王アハブと同じようにバアル礼拝を行い、神の神殿を異邦の神々で満たして神の前に罪を重ね、その後の王たちも背き続けます。そのことを見越すように、イザヤはヒゼキヤ王に「あなたがバビロンの使者に見せた全ての財宝はやがてバビロンへと持ち去られる」と預言しました。これがイザヤの死後、約100年後のBC586年に南ユダ王国に臨んだ「バビロン捕囚」です。
イザヤ書の前半は神に立ち返らない民に神の裁きが来ることを警告していますが、結局南ユダ王国の人々はイザヤの預言の声に聞き従うことはありませんでした。
イザヤは神からの幻でバビロン捕囚が避けられないことを悟ります。しかし神は、バビロンに連れて行かれる将来の人々に向けて、バビロン捕囚からの解放の預言をイザヤに授けました。次の後半40章から66章までは「希望と回復」の預言です。40章の始まりの言葉「慰めよ、わが民を慰めよ」は、これまでの預言と違う明るさを持っています。
そしてその預言の多くは、遠い将来のイエス・キリストによる全人類の罪からの解放という「メシア預言」を含んでいて希望に満ちた預言となっています。
次回は後半40章~66章を見ていきたいと思います。
ハトコでした。ではまた。
●イザヤの記事の後編はこちら
●預言者シリーズの他の記事も、ぜひお読みください。
Copyright © 新生宣教団 All rights reserved.