こんにちはハトコです。
今回は預言者イザヤと、その預言書である「イザヤ書」について紹介する記事の「後編」です。
前編で書いたように、イザヤ書は章ごとに分類すると大きく2つに分けられます。
前半1章から39章までがバビロン捕囚前の南ユダ王国に対しての「裁きと警告」の預言。
後半40章から66章までがバビロン捕囚となる将来の人々に向けて語られた「希望と回復」の預言です。
40章の始まりの言葉は「慰めよ、わが民を慰めよ」で始まり、前半の「裁きと警告」の預言とは色合いがガラリと変わります。読んでいても心が励まされる言葉が多く出てきます。
また、イエス・キリストについての預言であるとされる「しもべの歌」が4つ登場します。この後半は「40章~48章」「49章~55章」「56章~66章」に大きく分けられます。
今回はこの区分で後半をざっくりと見ていきます。
牧師の家庭に生まれる。田舎でおとなしい子供時代を過ごしたが、高校卒業後に大阪に住んだことで性格が外交的に変わる。大阪の教会で牧師が1か月にわたり語ってくれた十字架のメッセージを聞いて明確に聖書の福音が解るようになった。好きなことは「掃除」「イエス様に従うこと」。苦手なことは「整理整頓」「ホラーやスプラッター系全般」。(「掃除」と「整理整頓」は別物です!)。新生宣教団職員。
ここでは、捕囚からの解放の宣言と、神がイスラエルをご自分の民として愛しておられること、また創造主なる神の偉大さ、そして、偶像により頼むことの愚かさが語られています。
またイスラエルをバビロンから解放するのは人ではなく神ご自身だということ。そのためには地上の異邦の王さえもその目的のために神が任命するという神の主権が語られます。
途中47章はイスラエルを苦しめた高慢なバビロンに対する裁きの預言がされています。
冒頭の慰めの言葉に次いで、高らかに「バビロン捕囚の終わり」が宣言されます。
そして、イスラエルをバビロンから解放するのは人ではなく神ご自身だということ、その神は偉大で、力強いということを高らかにうたっています。
また、創造主なるご自分と他国の偶像とを比較して偶像に頼ることの愚かさを示されます。
私は個人的にこの対比が大好きです。若い頃からこの対比を読むたびに「聖書の神様こそ本物!」と心が踊りました。
イスラエルは神がご自分の契約の民として選ばれた民族であり、その愛と選びは永遠に変わらないという事が示されています。
特に43章4節は他の聖書の訳では「わたしはあなたを愛している」となっていて、イスラエルだけでなく、この「I Love You」という言葉は、全人類そして私たち個人を愛してくださる神の愛を表わす言葉として、教会ではよく語られる有名な聖句です。
受膏者(じゅこうしゃ)クロスとは、バビロンを滅ぼしたペルシャ王キュロス2世のことです。(受膏者とは「油注がれたもの」で、神の任命を表します)
バビロン捕囚は、イスラエルを神に立ち返らせるための苦難でした。そしてその解放も神のご計画で、そのために異邦人の王クロスは選ばれたのです。
この選びによってクロス王はバビロンを滅ぼし、イスラエル人のエルサレム帰還を許可する勅令を出します。
この預言はイザヤの死から約100年以上も後のBC538に実現しています。
49章~55章で目立つのが「しもべの歌」と言われる預言です。イザヤ書の後半には4つの「しもべの歌」がありますが、そのうちの3つがここの区分に含まれています。「しもべ」とは、イエス・キリストのことです。
またこの区分には「シオン」という言葉が多く登場します。「シオン」とは南ユダ王国の首都だった「エルサレム」の別名(愛称)です。これ以前の48章までは、呼びかけが「ヤコブ」「イスラエル」という国でしたが、「シオン」「エルサレム」は町の名前です。ここからはこのエルサレムの町の回復が語られていきます。
49章の1~13までは「しもべの歌」ですが、これについては後で4つまとめて見ていきたいと思います。
14節に「しかしシオンは言った」と出てきます。イスラエルの民は神が捕囚から解放すると言われたことに対し、疑心暗鬼です。本当にそんなことが起こるのかと。そのような民に対し、神様はご自分の思いを語られます。そこには神のイスラエルに対する熱い愛と、熱心さが見られます。
ここに出てくる「たなごころ」とは掌(てのひら)のことです。イスラエルの名前を神様の手のひらに彫ったというのです。彫るなんて痛いですよね。これはイエス・キリストが十字架上で両手両足に釘打たれた苦しみを思い出させます。
そしてシオンの回復については
というこのような回復の預言が多くなされていきます。
54章では「夫」「妻」という言葉が出てきます。
聖書では、神とイスラエルの関係(契約)は夫婦関係と同じです。ですので、イスラエルの民が偶像礼拝をしたというのは、妻が他の男に走ったという不貞の罪だったわけです。神様が悲しみ憤るのも合点がいきます。
しかし、神様の愛は深く一度はイスラエルから顔を隠したけれども、再びイスラエルを憐れむと語られます。
神様はエルサレムを回復するその繁栄を、美しく力強い言葉で語られます。
宝玉で飾られたエルサレムの姿は、黙示録の新しいエルサレムを思い出させます(黙示録21章2 参照)。また、神に聞き従うものの祝福が語られます。
これらはエルサレムへの回復の預言ですが、神様に従うわたしたちにも約束されている祝福です。
「しもべの歌」のしもべとはイエス・キリストのことです。このイエス様が神のしもべとしてこの地上に来られ、その働きをまっとうすることが預言されています。では一つずつ見ていきましょう。
ここの主語「わたし」とは神様で、しもべはイエス様です。このしもべは「国びとに道をしめす」存在です。他の聖書訳では「さばき」を行うとありますが、原語は「裁き」「道」「公正」「正しい法」という多くの意味合いがあるそうで、ここでは「誤った道を正す」という意味が強いと思います。
2節の「声を上げること無く」は、新約聖書のイエス様の生涯を見ると、いつもご自分のことを公にしないように語っておられたことと合致します。
3節の「傷ついた葦、ほの暗い灯心…」とは、弱い立場の人々を優しくケアするイエス様のお姿です。イエス様は、その地上生涯でいつも虐げられている人々の味方でした。また別の意味ではこの葦は傷つき折れそうな神の律法で、くすぶる灯心もまた、消えそうな神の律法という解釈もあり、イエス様は曲がった神の律法をまっすぐに正し、消えそうな神の正しい教えを再び燃え立たせるために来られたということも読み取れます。
第二のしもべの預言は「イスラエルの回復」と「異邦人へ救いをもたらす」ことについてです。
ここではイスラエルにとどまらず全世界に神様の救いの光を輝かせる存在として預言されています。
2節の「鋭利なつるぎ」「とぎすました矢」は神のみ言葉(イエス様)のことです。
また「隠す」とは、父なる神様との密接な関係を表しています。
イエス様はいつも父なる神様と祈りによって交わりを持っておられました。そして父なる神様の御心に沿うことのみを語っておられました。隠すとは密接な関係を表しているのです。
4節はイエス様が十字架で苦しみを受けることが読み取れます。ここは頑なな民に預言し続けているイザヤ自身の姿も重ねているようです。
後半の8節~13節は遠い将来の終末に回復される「神の国」の預言です。そこには大きな喜びが湧き上がっています。
第三のしもべの預言で語られたのは「耳が開かれたしもべ」です。ここでは「わたし」というのがイエス様で、「主なる神」が父なる神様です。
イエス様はこの地上に来られ、父なる神の声に忠実に従われ、それ故に「十字架の苦難」を受け入れることができました。
特に6節は十字架刑に処される際の多くの辱めが預言され、イエス様は預言通りに苦難を受け入れたのです。そしてその苦難に従順に従った結果は完全な勝利だと預言されています。
ここでは栄えるしもべと損なわれたしもべが同時に描かれていますが、両方ともイエス様を指しています。神に選ばれたしもべは、十字架の死に至るまで神様に従順でした。
この苦しみは、イエス様がわたしたちの代わりに受けてくださった苦しみです。
そしてイエス様ご自身が、そのご自分の苦しみの結果(勝利)に満足されると預言されています。
それはその苦しみによって全人類の救いが成就するからで、私たちも主なる神、救い主なるイエス様を信じるなら、この救いに預かることができるのです。
イザヤ書後半、最後の区分です。今まで、イスラエルの国の捕囚からの解放、シオン(エルサレム)の町の回復が語られてきましたが、ここでは、その範囲が神の民ではない異邦人(全世界)まで広げられます。そして神に従う者と従わない者の対比が描かれ、従う者には、遠い将来、終末に成就する神の御国(みくに)に入るという約束の預言がなされます。
56章に「宦官」という言葉が出てきますが、宦官とは王に仕える「去勢された者」のことを指します。イスラエルの神の律法では「こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者は、【主】の集会に加わってはならない。」とされていて、本来は神の民に加わることはできない者とされていました。
しかし、イエス様の十字架の贖いは、そのような者や異邦人さえも、主なる神様にしっかりとつながるなら、その赦しに預かり神の民に加わることができると預言しています。
57章~59章は、神に従うものと背く者の対比が描かれています。従うものには祝福が及び、従わないものには叱責がなされています。
56章10節に「見張り人」と出てくるのは、イスラエルの宗教指導者で、神の律法を見張るべき者が盲目になっており、私腹を肥やしていると叱責されています。
偶像礼拝を続ける民とは反対に、神の前にへりくだって従うものには豊かな祝福が望みます。
58章では「大いに呼ばわって」と始まります。罪を大きな声で告げ悔い改めを促すかのような内容です。そして59章の次のみ言葉も有名です。
ここにあるように、わたしたちと神様を妨げるものは「罪」です。その罪を取り除いてくださった方がイエス・キリストです。
わたしたちはイスラエルの民のように頑なにならず、神様に聞き従い罪を取り除かれ、赦しをいただきたいものです。
59章16-17はイエス様の初臨(最初に地上に人としてお生まれになったこと)の預言です。
神はご自分と人との間を仲介するものがいないことに驚き、神ご自身がその働きをされたということです。それは勝利をおさめる戦いでした。
そして59章18~21節はイエス・キリストの再臨(将来再びこの地に戻って来られること)の預言です。
聖書の歴史観の終着点は神が治める「神の御国」の到来です。
それには段階があり、まずエルサレムに再臨のイエス様が統治する「千年王国(メシア王国)」が建てられ、その後、父なる神が治める永遠の「新天新地」の神の御国(みくに)が訪れるというものです。
イザヤ書の60章から66章はこれらの到来の預言です。
60章1節のあなたとは「エルサレム」のことで、千年王国の中心地エルサレムに神の栄光が光り輝くということが言われています。
60章の19節以降は、千年王国のあとに来る永遠の御国「新天新地」の描写です。
この国には太陽や月といった造られた光ではなく、神ご自身の栄光が永遠の光となって輝きます。
61章で特徴的な言葉は2節の「主の恵みの年」と「復讐の日」です。「恵みの年」とはイエス・キリストの救い(初臨)で、「復讐の日」とは再臨されるイエス様による終末の悪に対する神の裁きのことです。
しもべなるイエス様はこの2つをこの世に告げ知らせるために来られるという預言です。そしてその通りとなり、今私たちは「聖書」からこれらの預言の成就と、これから起こることを確認していくことになるのです。
その他には戦いの描写と思われる預言がありますが、それらは再臨されるイエス様と、この世の悪の勢力との戦いについてです。これらは新約聖書の黙示録の預言と合致します。
長くなりましたが、イザヤ書の後半は捕囚の民の解放、イエス・キリストの贖い、終末の神の国に言及した預言です。イザヤ書を読む時、私たちは全てを支配されている神様の偉大さと、これから起こる神様のご計画に目が開かれていくのではないでしょうか。
神の声に聞き従わず頑なになったイスラエルの民のようでは無く、神の声に耳を傾け、祝福された神の国へ招かれるためにイエス様の救いを素直に受け入れる者でありたいと思います。
ハトコでした。ではまた。
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