こんにちは。Taroです。
この時代、色々なことが起きて浮き沈みが激しく、苦労が絶えないですよね。
そんな中で、平常心を保つのに優れた知恵の言葉があります。「人間万事塞翁が馬(じんかん/にんげんばんじさいおうがうま)」というお話ですが皆さんはご存知ですか。
これは紀元前中国の淮南子(えなんじ/わいなんし)という書物に記された逸話で、日本でも座右の銘にされている方も多いと聞きます。どんなお話でしょうか。
昔、中国の北部の要塞に老人が住んでいました。
老人の馬が逃げてしまったとき、この老人は「これは福となるかもしれないよ」と言いました。
しばらくして、逃げた馬が多くの駿馬を連れて戻ってきたのでした。
周囲の人は喜んで祝福したのですが、今度はこの老人は「これは禍(わざわい)をもたらすかもしれない」と言いました。
ほどなく、老人の息子は駿馬から落ちて骨折してしまいました。
すると今度はまた「これは福となるかもしれないよ」と言うのです。
その後、戦争が起こり男子はみな徴兵されて行ったのですが、息子だけは骨折のおかげで徴兵を免れたのでした。
「人生というのは要塞に暮らす翁(老人)の馬をめぐる出来事のようだ」というお話です。
これをどう捉えるか。
「禍福を簡単に判断するなかれ」と思う人や「起こってくる出来事に一喜一憂せず自然体で受け止めなさい」と思う人など、人それぞれかもしれません。
自分は、これはとてもいい話だと思いました。本当に明日をも知れぬ厳しく不安定な時代。つい目先のことに捕われて心が乱れ、狭い考えになりがちですが、もう少し俯瞰(ふかん)して物が見えると生き方も安定していいですよね。
実は、今日ご紹介したいのは淮南子による逸話ではありませんで、それと似たような経験をした旧約聖書の人物、ヨセフについてです。お話はわかりやすいので聖書をたどりながらその経験から学んでいきましょう。よく読んでいくと中国の逸話とは決定的に違っているところもあったりしますので、最後までお付き合いいただけたらと思います。
目次
プロテスタント教会の信徒で新生宣教団の職員。前職から印刷に関わり活版印刷の最後の時代を知る。 趣味は読書(歴史や民俗学関係中心)。明治・江戸の世界が垣間見える寄席好き。カレー愛好者でインド・ネパールから松屋のカレーまでその守備範囲は広い。
まず、ヨセフとは何者なのでしょうか。ヨセフは旧約聖書にでてくるイスラエル人の祖、アブラハムのひ孫に当たる人物です。父ヤコブには二人の妻と二人の女奴隷のそばめがいて、彼女たちの間に12人の子をもうけるのですが、ヨセフはその11番目の子です。父ヤコブの最愛の妻ラケルからはなかなか子が生まれず、そのラケルとの間にようやく授かった子がヨセフでした。
ヤコブの子孫は次のとおりである。ヨセフは十七歳の時、兄弟たちと共に羊の群れを飼っていた。彼はまだ子供で、父の妻たちビルハとジルパとの子らと共にいたが、ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。
ヨセフは年寄り子であったから、イスラエルは他のどの子よりも彼を愛して、彼のために長そでの着物をつくった。
兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかった。創世記37章2節~4節
ヨセフは、ヤコブにとっては晩年の子。しかも、最愛のラケルによってようやく与えられた子であったため、ヤコブは彼を溺愛しました。そして青少年の頃のヨセフは空気の読めない子どもだったようですね。兄たちの悪いうわさを父に告げたりして、兄たちとの関係を難しくしてしまいました。
ある時、ヨセフは夢を見て、それを兄弟たちに話したので、彼らは、ますます彼を憎んだ。
ヨセフは彼らに言った、「どうぞわたしが見た夢を聞いてください。
わたしたちが畑の中で束を結わえていたとき、わたしの束が起きて立つと、あなたがたの束がまわりにきて、わたしの束を拝みました」。
すると兄弟たちは彼に向かって、「あなたはほんとうにわたしたちの王になるのか。あなたは実際わたしたちを治めるのか」と言って、彼の夢とその言葉のゆえにますます彼を憎んだ。
ヨセフはまた一つの夢を見て、それを兄弟たちに語って言った、「わたしはまた夢を見ました。日と月と十一の星とがわたしを拝みました」。
彼はこれを父と兄弟たちに語ったので、父は彼をとがめて言った、「あなたが見たその夢はどういうのか。ほんとうにわたしとあなたの母と、兄弟たちとが行って地に伏し、あなたを拝むのか」。
兄弟たちは彼をねたんだ。しかし父はこの言葉を心にとめた。創世記37章5節~11節
ヨセフには神様からの不思議な賜物(授かった能力)がありました。それは神様から夢(幻)が与えられるという能力です。このとき彼が見た2つの夢は、兄弟や父親さえも自分を伏し拝むという内容だったため、ますます兄たちに妬まれてしまいました。
ヨセフが彼らに近づかないうちに、彼らははるかにヨセフを見て、これを殺そうと計り、互に言った、「あの夢見る者がやって来る。
さあ、彼を殺して穴に投げ入れ、悪い獣が彼を食ったと言おう。そして彼の夢がどうなるか見よう」。
ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から救い出そうとして言った、「われわれは彼の命を取ってはならない」。
ルベンはまた彼らに言った、「血を流してはいけない。彼を荒野のこの穴に投げ入れよう。彼に手をくだしてはならない」。これはヨセフを彼らの手から救いだして父に返すためであった。
さて、ヨセフが兄弟たちのもとへ行くと、彼らはヨセフの着物、彼が着ていた長そでの着物をはぎとり、彼を捕えて穴に投げ入れた。その穴はからで、その中に水はなかった。
こうして彼らはすわってパンを食べた。時に彼らが目をあげて見ると、イシマエルびとの隊商が、らくだに香料と、乳香と、もつやくとを負わせてエジプトへ下り行こうとギレアデからやってきた。
そこでユダは兄弟たちに言った、「われわれが弟を殺し、その血を隠して何の益があろう。
さあ、われわれは彼をイシマエルびとに売ろう。彼はわれわれの兄弟、われわれの肉身だから、彼に手を下してはならない」。兄弟たちはこれを聞き入れた。
時にミデアンびとの商人たちが通りかかったので、彼らはヨセフを穴から引き上げ、銀二十シケルでヨセフをイシマエルびとに売った。彼らはヨセフをエジプトへ連れて行った。 創世記37章18節~28節
ある日、ヨセフの兄たちは羊の遊牧のためにシケムという地に出向いていました。ヨセフだけは特別扱いだったのか父ヤコブのもとにいたのですが、父から「兄たちと羊たちの様子をみてきて、知らせてほしい」とお使いを頼まれます。
彼らの移動先であったドタンの地で、ヨセフは兄たちと会えたのですが、ヨセフを憎む兄たちは殺しこそしなかったものの、まだ若かったヨセフをエジプトへ行く隊商に売り飛ばしてしまいました。
さてヨセフは連れられてエジプトに下ったが、パロの役人で侍衛長であったエジプトびとポテパルは、彼をそこに連れ下ったイシマエルびとらの手から買い取った。
主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。
その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た。
そこで、ヨセフは彼の前に恵みを得、そのそば近く仕えた。彼はヨセフに家をつかさどらせ、持ち物をみな彼の手にゆだねた。
彼がヨセフに家とすべての持ち物をつかさどらせた時から、主はヨセフのゆえにそのエジプトびとの家を恵まれたので、主の恵みは彼の家と畑とにあるすべての持ち物に及んだ。
そこで彼は持ち物をみなヨセフの手にゆだねて、自分が食べる物のほかは、何をも顧みなかった。さてヨセフは姿がよく、顔が美しかった。 創世記38章1節~6節
ヨセフが売られていった場所は、エジプトの高官ポテパルの家でした。
神と共に歩んだヨセフは神の祝福のもと次第に頭角をあらわし、その主人に認められて家の様々な管理を任されるほどになりました。一方で容姿にも優れていた彼は、主人の妻に目をかけられてしまいます。
これらの事の後、主人の妻はヨセフに目をつけて言った、「わたしと寝なさい」。
ヨセフは拒んで、主人の妻に言った、「御主人はわたしがいるので家の中の何をも顧みず、その持ち物をみなわたしの手にゆだねられました。
この家にはわたしよりも大いなる者はありません。また御主人はあなたを除いては、何をもわたしに禁じられませんでした。あなたが御主人の妻であるからです。どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」。
彼女は毎日ヨセフに言い寄ったけれども、ヨセフは聞きいれず、彼女と寝なかった。また共にいなかった。
ある日ヨセフが務をするために家にはいった時、家の者がひとりもそこにいなかったので、彼女はヨセフの着物を捕えて、「わたしと寝なさい」と言った。ヨセフは着物を彼女の手に残して外にのがれ出た。
彼女はヨセフが着物を自分の手に残して外にのがれたのを見て、その家の者どもを呼び、彼らに告げて言った、「主人がわたしたちの所に連れてきたヘブルびとは、わたしたちに戯れます。彼はわたしと寝ようとして、わたしの所にはいったので、わたしは大声で叫びました。
彼はわたしが声をあげて叫ぶのを聞くと、着物をわたしの所に残して外にのがれ出ました」。
彼女はその着物をかたわらに置いて、主人の帰って来るのを待った。
そして彼女は次のように主人に告げた、「あなたがわたしたちに連れてこられたヘブルのしもべはわたしに戯れようとして、わたしの所にはいってきました。
わたしが声をあげて叫んだので、彼は着物をわたしの所に残して外にのがれました」。
主人はその妻が「あなたのしもべは、わたしにこんな事をした」と告げる言葉を聞いて、激しく怒った。
そしてヨセフの主人は彼を捕えて、王の囚人をつなぐ獄屋に投げ入れた。創世記39章7節~20節
言い寄られたヨセフは、主人の妻による誘惑をかわして窮地を脱しますが、あろうことか怒った主人の妻は、言い寄ったときにヨセフから剥ぎ取った着物を証拠に、あべこべにヨセフに罪を着せてしまいました。
怒った主人により、ヨセフは平安な日々を剥奪され、獄につながれる身となってしまいました。何という不条理でしょうか!
主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた。
獄屋番は獄屋におるすべての囚人をヨセフの手にゆだねたので、彼はそこでするすべての事をおこなった。
獄屋番は彼の手にゆだねた事はいっさい顧みなかった。主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた。
これらの事の後、エジプト王の給仕役と料理役とがその主君エジプト王に罪を犯した。
パロはふたりの役人、すなわち給仕役の長と料理役の長に向かって憤り、侍衛長の家の監禁所、すなわちヨセフがつながれている獄屋に入れた。
侍衛長はヨセフに命じて彼らと共におらせたので、ヨセフは彼らに仕えた。こうして彼らは監禁所で幾日かを過ごした。
さて獄屋につながれたエジプト王の給仕役と料理役のふたりは一夜のうちにそれぞれ意味のある夢を見た。
ヨセフが朝、彼らのところへ行って見ると、彼らは悲しみに沈んでいた。
そこでヨセフは自分と一緒に主人の家の監禁所にいるパロの役人たちに尋ねて言った、「どうして、きょう、あなたがたの顔色が悪いのですか」。
彼らは言った、「わたしたちは夢を見ましたが、解いてくれる者がいません」。ヨセフは彼らに言った、「解くことは神によるのではありませんか。どうぞ、わたしに話してください」。 創世記39章21節~40章8節
さて三日目はパロの誕生日であったので、パロはすべての家来のためにふるまいを設け、家来のうちの給仕役の長の頭と、料理役の長の頭を上げた。
すなわちパロは給仕役の長を給仕役の職に返したので、彼はパロの手に杯をささげた。
しかしパロは料理役の長を木に掛けた。ヨセフが彼らに解き明かしたとおりである。
ところが、給仕役の長はヨセフを思い出さず、忘れてしまった。 創世記40章20節~23節
獄につながれたヨセフでしたが、ここでも神である主が共におられ、模範囚として一目おかれる存在となっていきました。
そしてあるとき不思議なことがおきます。
それは、王に仕える給仕役の長と料理役の長がそれぞれの罪でヨセフのいる獄に入れられてきたことです。そして、幾日かの後、彼らは同じ夜にそれぞれ意味ある夢を見るのですが、ヨセフはその夢を主による導きで解き明かしました。
解き明かした内容は、3日目に給仕役の長は許されて旧職に復帰し、料理役の長は処刑されてしまうということでした。果たしてヨセフの解き明かし通りに、給仕役の長は獄から解放されましたが、「解放されたあかつきにはパロ王に話して、ヨセフの身分にも憐れみを施して欲しい」とのヨセフの願いは、むなしく忘れ去られてしまいました。これもまた何と言っていいのか。。。
ヨセフはパロに言った、「パロの夢は一つです。神がこれからしようとすることをパロに示されたのです。
七頭の良い雌牛は七年です。七つの良い穂も七年で、夢は一つです。
あとに続いて、上がってきた七頭のやせた醜い雌牛は七年で、東風に焼けた実の入らない七つの穂は七年のききんです。
わたしがパロに申し上げたように、神がこれからしようとすることをパロに示されたのです。
エジプト全国に七年の大豊作があり、その後七年のききんが起り、その豊作はみなエジプトの国で忘れられて、そのききんは国を滅ぼすでしょう。
後に来るそのききんが、非常に激しいから、その豊作は国のうちで記憶されなくなるでしょう。
パロが二度重ねて夢を見られたのは、この事が神によって定められ、神がすみやかにこれをされるからです。
それゆえパロは今、さとく、かつ賢い人を尋ね出してエジプトの国を治めさせなさい。
パロはこうして国中に監督を置き、その七年の豊作のうちに、エジプトの国の産物の五分の一を取り、続いて来る良い年々のすべての食糧を彼らに集めさせ、穀物を食糧として、パロの手で町々にたくわえ守らせなさい。
こうすれば食糧は、エジプトの国に臨む七年のききんに備えて、この国のためにたくわえとなり、この国はききんによって滅びることがないでしょう」。
この事はパロとそのすべての家来たちの目にかなった。創世記41章25節~37節
給仕役の長が獄から解かれて2年ほど経ったとき、エジプトの王パロが不思議な夢を見て心を騒がせます。
そのとき、ようやく給仕長はヨセフのことを思い出したのでした。彼はパロに夢の解き明かしができる青年がいることを伝えます。
パロに召し出されたヨセフは、パロが見た夢が、7年の豊作の後に7年の飢饉が世界的に訪れることを示していると伝えます。そればかりか、7年後に訪れる飢饉にどう対応すべきかの献策までしたのでした。
そこでパロは家来たちに言った、「われわれは神の霊をもつこのような人を、ほかに見いだし得ようか」。
またパロはヨセフに言った、「神がこれを皆あなたに示された。あなたのようにさとく賢い者はない。
あなたはわたしの家を治めてください。わたしの民はみなあなたの言葉に従うでしょう。わたしはただ王の位でだけあなたにまさる」。
パロは更にヨセフに言った、「わたしはあなたをエジプト全国のつかさとする」。
そしてパロは指輪を手からはずして、ヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の鎖をくびにかけ、自分の第二の車に彼を乗せ、「ひざまずけ」とその前に呼ばわらせ、こうして彼をエジプト全国のつかさとした。
ついでパロはヨセフに言った、「わたしはパロである。あなたの許しがなければエジプト全国で、だれも手足を上げることはできない」。創世記41章38節~44節
ヨセフの献策は、大いにパロと側近たちを満足させ、大胆にもパロはヨセフを宰相に引き上げたのでした。おそらくそこに神の知恵が働いていることを明確に感じ取ったからではないかと思います。
7年の豊作時に、備蓄を意識したエジプトは飢饉に強い国になっていきました。
ヤコブはエジプトに穀物があると知って、むすこたちに言った、「あなたがたはなぜ顔を見合わせているのですか」。
また言った、「エジプトに穀物があるということだが、あなたがたはそこへ下って行って、そこから、われわれのため穀物を買ってきなさい。そうすれば、われわれは生きながらえて、死を免れるであろう」。
そこでヨセフの十人の兄弟は穀物を買うためにエジプトへ下った。
しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちと一緒にやらなかった。彼が災に会うのを恐れたからである。
こうしてイスラエルの子らは穀物を買おうと人々に交じってやってきた。カナンの地にききんがあったからである。
ときにヨセフは国のつかさであって、国のすべての民に穀物を売ることをしていた。ヨセフの兄弟たちはきて、地にひれ伏し、彼を拝した。創世記42章1節~6節
7年の豊作の後、7年にも及ぶ世界的飢饉はカナンの地にも例外なくおこりました。
ヤコブは最愛の妻ラケルがヨセフの後に生んだ末っ子のベニヤミンだけは手元に残して、ヨセフの兄たち10人を食糧の調達のためエジプトに遣わします。
そこでヨセフが宰相になっていることも知らずに。
ここで、ヨセフが青少年の時代に見た夢が現実のものになります。
ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしに近寄ってください」。彼らが近寄ったので彼は言った、「わたしはあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です。
しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。
この二年の間、国中にききんがあったが、なお五年の間は耕すことも刈り入れることもないでしょう。
神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。
それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。神はわたしをパロの父とし、その全家の主とし、またエジプト全国のつかさとされました。
あなたがたは父のもとに急ぎ上って言いなさい、『あなたの子ヨセフが、こう言いました。神がわたしをエジプト全国の主とされたから、ためらわずにわたしの所へ下ってきなさい。
あなたはゴセンの地に住み、あなたも、あなたの子らも、孫たちも、羊も牛も、その他のものもみな、わたしの近くにおらせます。
ききんはなお五年つづきますから、あなたも、家族も、その他のものも、みな困らないように、わたしはそこで養いましょう』。
あなたがたと弟ベニヤミンが目に見るとおり、あなたがたに口ずから語っているのはこのわたしです。
あなたがたはエジプトでの、わたしのいっさいの栄えと、あなたがたが見るいっさいの事をわたしの父に告げ、急いでわたしの父をここへ連れ下りなさい」。
そしてヨセフは弟ベニヤミンのくびを抱いて泣き、ベニヤミンも彼のくびを抱いて泣いた。
またヨセフはすべての兄弟たちに口づけし、彼らを抱いて泣いた。そして後、兄弟たちは彼と語った。
時に、「ヨセフの兄弟たちがきた」と言ううわさがパロの家に聞えたので、パロとその家来たちとは喜んだ。
パロはヨセフに言った、「兄弟たちに言いなさい、『あなたがたは、こうしなさい。獣に荷を負わせてカナンの地へ行き、父と家族とを連れてわたしのもとへきなさい。わたしはあなたがたに、エジプトの地の良い物を与えます。あなたがたは、この国の最も良いものを食べるでしょう』。 創世記45章4節~18節
このようにヨセフと兄弟たちとの劇的な再会がなされます。そして、この後、父ヤコブもエジプトへと渡り、ヨセフの若いときの2つ目の夢も現実のものとなりました。上記の聖句のように、ヨセフが自らの正体を明かすまでには、実に色々なやり取りが、10人の兄たちとの間にありました。
創世記42章から44章にかけて、12人目の弟ベニヤミンをエジプトに来させるようにヨセフが諮(はか)り、ベニヤミンがエジプトに来ると、今度は、ベニヤミンだけはカナンの地へ返さないと言って、兄たちの立場を窮地に追いやっています。そこで明らかになってきたのが、兄たちの弟ヨセフを売った罪への自責の念でした。ヨセフを失った上に、末っ子のベニヤミンまで失いかねない状況になることは、父ヤコブにとって死ぬほど辛いことであるということを、兄たちはわかっていました。そして、ヨセフをエジプトへ売ったことを心から悔いていたのです。このように、自らの罪を明確に自覚するとき、赦しの恵みは鮮明になるのですね。
彼らは互に言った、「確かにわれわれは弟の事で罪がある。彼がしきりに願った時、その心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでこの苦しみに会うのだ」。
ルベンが彼らに答えて言った、「わたしはあなたがたに、この子供に罪を犯すなと言ったではないか。それにもかかわらず、あなたがたは聞き入れなかった。それで彼の血の報いを受けるのです」。創世記42章21節~22節
いかがでしたか。ヨセフの生涯は困難の連続でしたが、後ろの方から見直してみると、遠大な神様のご計画の中に全ての出来事が組み込まれていて、それぞれに意味があったことがわかります。
ヨセフがどれほどそれを意識して不遇時代を過ごしていたのかはよくわかりません。しかし、ところどころに記述があるように、「主がヨセフと共におられたので」場面場面では祝福があったし、それは大きな励みだったに違いありません。おそらくヨセフ自身も「主と共にいること」を大切にしていたのではないかと思いました。
そして、世界的飢饉の中でカナンの地から兄弟たちが食糧を求めてエジプトにやってくるという場面に出くわした時、彼は、はじめてそれまでの長い歳月(13年にもなったようです)の意味がはっきりとわかったのではないでしょうか。
最初に述べた、このお話が「人間万事塞翁が馬」の話と決定的に違うのは、万物を造り支配しておられる人格(ペルソナ)をもたれる神の存在と、神の意思の有無ではないかと思います。
そして、このお方が「愛」そのものであることを知るとき、私たちにとって喜べない出来事も、失敗も、不遇の時間が続くことも決して不幸に落ちるためのものではなく、神様の計画の役割の一端を担わせていただいているということに気づくことができるのではないかと思うのです。
そして、同胞に裏切られ、売られて、牢に閉じ込められて、復活して後に自分を見捨てた同胞を救い出すというヨセフのこの体験はイエス・キリストによる救いの計画の雛形とも言われています。
最後に関連すると思われる聖書の言葉を3つほどご紹介します。
お互い、いかなる時でも「愛」なる神と共に過ごすことを意識していきたいですね。
では。
すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。箴言3章6節
天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。伝道の書3章1節
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。ローマ人への手紙8章28節
★記事中のイラストは主に、素材サイト「こひつじイラスト」さんから使わせていただきました
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