新生宣教団ではこれまでに何度か、少数民族であるカレン族のための聖書を印刷し、現地のミッションパートナーに送り届けています。
厳しい迫害の歴史を持つカレン族はミャンマーやタイに暮らしている少数民族で、その数は400万人とも言われています。
ミッションパートナーから、カレン語の聖書を受け取った方の証を送っていただきましたのでお分かちします。
過酷な状況の中にも、いかに主が豊かに働いておられるかをご覧ください。
私の名前はNです。1977年にカレン州のP市にあるジャングルの村で生まれました。
私は5人兄妹の3番目で、育った場所は内戦地帯。父はカレンの兵士でした。
祖父母の世話をしながら一緒に暮らしていました。
私が10歳の頃内戦が激しくなり、父が最前線に送られました。
父は、母と子どもの私たちをジャングルに隠しましたが、私はそこでマラリアに感染しました。
母は必死で私の面倒を看てくれましたが、非常に強い高熱や腹痛、頭痛、嘔吐に悩まされ、ついには姉もマラリアにかかりました。病院に行くことができず、姉はジャングルで亡くなりました。
祖父は私たちの状況を聞いて、私たちをジャングルで探し出し、いくつかの薬草を見つけて持ってきてくれたものの、姉には間に合いませんでした。
その後私たちは小さな村に引っ越しましたが、収入が少なく、毎日薄いお粥だけを食べて暮らしていました。
しばらくすると再び戦争が勃発し、ビルマの兵士たちが私たちの小さな村にやってきました。
私たちは隠れるために再びジャングルに逃がれました。食べ物も無く、本当に大変な日々でした。
梅雨の時期は毎日タケノコを食べ、乾季にはお粥を食べていました。
学校に行く機会もありませんでした。村にはカレンの子どもたちのための学校がいくつかあるということを聞き、私も行って教育を受けたいと思っていましたが、その夢は叶いませんでした。
私は19歳のときに夫と出会いました。最初の子どもは生まれた直後に亡くなりました。
産後の肥立ちが悪く、近所の人がお金を集めて病院に連れて行ってくれました。
その後息子と娘が生まれ、夫は仕事を探すためにタイに行き、山でキャベツを収穫して運ぶ仕事を見つけました。
毎日4~50kgのキャベツを運ぶ必要がありましたが、他の人はさらに多くのキャベツを背負っているのを見て驚きました。
そこで働くほとんどの人が麻薬を使っていたのです。夫も麻薬に手を出し、中毒になりました。
彼は2年間そこで働きましたが、私たちの生活費は送られてきませんでした。
夫が麻薬中毒になったと聞き、夫を取り戻すためにタイに行こうと思いました。
お金が無かったため、お酒を作って売ってお金を作りました。そして同じ状況の友人と一緒にタイに行くことにしました。
私たちは夫を見つけるのを手伝ってくれる男性に会うことになっていて、彼にそれぞれ500タイバーツ(約17ドル)を支払いましたが、これは私の全財産でした。
しかし私たちがタイのM市に到着したとき、彼はトイレに行くと言ったまま、私たちのお金を持って姿をくらましてしまったのです。
私たちはパニックになり、空腹と喉の渇きに加え、長旅の足の痛みで動けなくなってしまいました。
するとそこに突然ピックアップトラックが止まりました。
笑顔の男性がトラックから降りてきて、私たちにどこに行きたいのかと尋ねてきました。
行き先を告げると、彼は私たちをそこに連れて行ってくれると言いました。
私は「夫に会ったときに運賃を支払う」と言いましたが、彼はそれを受け取りませんでした。
振り返ってみると、天使だったのではないかと思うほどめずらしい男性でした。
そうこうしてついに夫に会うことができましたが、夫に会ってとてもショックを受けました。
彼は痩せていて、ほとんど病気で死にかけているような状況でした。
私は夫が治るまでしばらく看病し、それから私たちは共に一生懸命働き、夫にももう薬を使わないようにと頼みました。
しばらくして、私たちはタイの難民キャンプに行くことにしました。
最初の3か月は生きるだけでも非常に大変でした。私たちは最初の3ヶ月間難民としては扱われず、食料やその他の物資を手に入れるために自分を難民として登録する必要がありました。
その間は近所の人たちと食べ物を分かち合ってしのぎ、教会にとても近い竹の家に引っ越しました。
その引っ越しを機に、私は初めて生きている神の話を聞き、礼拝し、賛美している人々を見ました。
ある日、教会の牧師が私たちの家を訪れ、神の愛について分かち合い、「十戒」を私たちに分かち合ってくださいました。
しかし牧師は、私の家にある偶像や絵を見て、私がそれを取り除く必要があると言い出したのです。
私はそれを聞いて非常に腹を立て、二度と彼を私の家に上げることはありませんでした。
次に牧師が家に来たときは、私は友人の家に約一週間身を隠しました。一週間後家に帰ると、家の近くで牧師の声が聞こえてきました。
私は子どもたちに静かにするように言い、ろうそくを吹き消して、いないふりをしました。
しかし牧師は私の名前を呼び続けていました。午後7時か8時ごろだったのですが、牧師は帰ろうとしませんでした。
ついに夫は諦めて、再びろうそくに火をつけ牧師に会いに行きました。
私は彼を家に入れませんでしたが、私たちの家の外階段に彼を座らせました。
牧師は再び私たちの家族に神の言葉を分かち合い始めました。私は次第に牧師に心を開き、彼と話し始めました。
私は他の神々を崇拝していると彼に言いましたが、牧師は私が天の神を受け入れるべきであると語りました。
彼は私に多くのことを考えさせました。
そしてある晩、牧師は私たちのために祈ってもよいかと尋ねてきました。
彼は私が天の神を信じる決心をするようにと言いました。
何を信じるかを決めるのは私にとって大変なことでした。
ある夜、私は天の神に祈り、真の神を示してくれるようにと願いました。
その直後私は眠りにつき、夢の中でイエス・キリストが地上にやって来るのを見たのです。
地球全体が揺れ、この辺りの人々が死んでいる中に自分が立っているのを見ました。
見上げると、20人ほどの人々が美しい歌を歌っているのが見えました。
「なぜ私はまだ死者の中に立っているのですか?なぜ私はまだ生きているのですか?」と思いながら夢の中で私は歌の聞こえる丘を登り、彼らと一緒に歌いました。
そしてイエス・キリストのつま先が火のように明るく輝いているのを見ました。
私はこの夢の話を牧師に話しました。牧師はその夢はキリストの再臨のようだと私に言いました。
私の夢が聖書の教えと一致していることに驚きました。
夫と私は聖書を持っていませんでしたので、聖書を読むことができませんでしたが、牧師は頻繁に来て、神の言葉を私たちと分かち合いました。
ある日、牧師はノアの箱舟の話しをし、夫と私はその時イエス・キリストを私たちの救い主として受け入れることに決めました。
私たちはキリストの再臨に備える必要がありました。
それから約2年後、私たちは自分の聖書を手に入れました。
私たちは朝と夕方の1日2回聖書を読み始めました。
献金についての箇所を読んで、私は神を試してみたこともあります。
野菜を売る商売を500バーツから始め、日々の仕事から得た利益から十分の一を神に献げました。その結果、神は私と私の家族を祝福してくださり、売り上げは50,000バーツにまでなりました。
私たちはそれを資金に街に行って物を仕入れ、難民キャンプで販売して生計を立てました。
2001年にバプテスマを受け、2006年に難民キャンプを離れてカレン族の宣教師になることを決心しました。
今、私たちはM市で主に仕えています。神が私たちを彼の働きにおいてどのように導いておられるかを見ることができます。
私たちはカレン語の聖書にとても感謝しています。本当にありがとうございます。
これは、自分の聖書を持っていない聖徒にとって非常に重要でした。
神があなたとあなたのミニストリーを祝福してくださいますように。
新生宣教団で印刷された聖書がこうして、遠く離れた地で兄弟姉妹の手に渡り、主のご計画のうちに豊かに用いられていることを感謝します。
ミッションパートナーのため、また新生宣教団の働きのために引き続き覚えてお祈りください。
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