日本でキリスト教文化が花開いた街、長崎を訪ねる

       
  • 2024/12/13
  • 最終更新日:2024/12/13

長崎には日本のキリスト教史に関する史跡が数多くあります。2018年には、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連資産」として世界遺産にも登録されました。厳しい禁教政策の下で約250年もの長きに渡って密かに信仰が継承されてきた、世界に類を見ない歴史が評価されたのです。
信教の自由が認められると、その喜びを表すかのように各地に教会が献堂されていきました。しかし、そんな長崎を再び悲劇が見舞いました。1945年の原爆投下です。
このような歴史の大きな流れを理解しておくと、長崎の史跡巡りがより豊かな体験になるでしょう。今回は、筆者自身が辿った長崎市内を中心にキリスト教に纏(まつ)わるスポットをご紹介します。


都倉
Writer Profile都倉

ライター/編集者、時々漫画家。プロテスタント系の高校を卒業後に渡米。さまざまなマイノリティが住むニューヨークに滞在した経験から、差別や貧困・格差などの社会問題に関心を持つようになり、現在の活動の軸となっている。帰国後ずいぶん経ってから再び教会へ行くようになり、2022年のクリスマスに受洗。好きなものは大型犬。

 

日本のキリスト教史

キリスト教文化が花開き、「東の小ローマ」と呼ばれるほど栄えた長崎。一方、キリシタン迫害、原爆投下という二つの悲劇を経験した受難の地でもあり、歴史が多層的に折り重なっています。一つのスポットから次のスポットへ歩いていく間で、江戸時代から戦後までと大きく時間を跨(また)いだりするので、大きな歴史の流れを把握していないと混乱しがちです。

日本のキリスト教史は、大まかに、「宣教時代」「追放(殉教)時代」「潜伏時代」「再建時代」と区分することができます。

 

キリスト教伝来と宣教

西坂で殉教した二十六人を記念して建てられたレリーフ西坂で殉教した二十六人を
記念して建てられたレリーフ(筆者撮影)

日本にキリスト教が伝来したのは1549年。フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、次いで長崎県の平戸で布教活動を行いました。そこから西日本を中心に信徒を増やしていきます。

時の為政者は豊臣秀吉です。はじめは秀吉もキリスト教に寛容でしたが、着々と信徒が増えつづけていったために、次第に「全国統一を果たすには、キリスト教が障害になるのではないか」と警戒するようになります。そして、1587年には伴天連追放令*1 を発布。翌年1597年には、宣教師や信徒二十六人が長崎の西坂で処刑される事件が起こりました。

その翌年に秀吉が没し政権は徳川に交代します。当初、徳川家康はキリスト教に寛容であり、布教を黙認していました。1601年から1614年の間に教会や修道院、神学校、病院などの施設が多数建設され、長崎は「日本の小ローマ」と呼ばれるほど栄えました。最盛期には信徒数が65万人を超えたと言われています*2
*1 伴天連(ばてれん)とは、ポルトガル語のパードレpadre(神父)が訛った語
*2 カトリック中央協議会による https://www.cbcj.catholic.jp/japan/history/

 

キリシタン弾圧と潜伏

しかし、1612年にキリシタンが関わった疑獄事件「岡本大八事件」が起こり、徳川幕府はキリスト教に対する不信感を募らせます。同年、徳川幕府による最初の「キリシタン禁教令」が、1614年には「キリスト教禁教令」が全国に発布されました。禁教の高札が掲げられ、キリシタンの迫害は過酷さを増していきました。
※疑獄(ぎごく):政治的に大きな問題に発展した贈収賄事件

禁教の高札禁教の高札:
キリスト教徒を通報した場合は、司祭や修道士、
信徒などの身分に応じて報酬が
支払われる旨が記されている
(『日本二十六聖人記念館』の展示より、筆者撮影)

そんな中、キリスト教の全面禁止を決定づける出来事が1637年に起こります。島原・天草一揆(島原天草の乱)です。領主の過酷な年貢の取り立てに疲弊した農民と、弾圧に苦しむキリシタンたちが合流し、一揆に加わった民は約3万7千人にも及びました。廃城となっていた原城に籠城しおよそ3か月に渡って抵抗しますが、最後は全員が虐殺されるという悲劇的な結末を迎えます。

見つかれば厳しい拷問を受け棄教を迫られる———。そんな社会情勢のなかで、キリシタンたちは表向き仏教の檀家や神道の氏子を装って、キリシタンの信仰を隠すようになります。こうして始まった潜伏期間は、その後、実に約250年にも及びました。
キリシタンたちが信教の自由を得るには、1873年(明治6年)のキリスト教解禁まで待たなければなりません。

 

信徒発見の奇跡から復活の時代へ

信徒発見の舞台となった大浦天主堂(筆者撮影)信徒発見の舞台となった
大浦天主堂(筆者撮影)

時は流れ約250年後。日本は欧米諸国の要請を受けて開国し、箱館・横浜・新潟・神戸・長崎の5港が開港されました。未だ禁教令は解かれてはいませんでしたが、外国人居留地に定められた大浦地区には多数のフランス人が居住しており、彼らの求めに応じて大浦天主堂が建設されました。フランス人のために建てられた教会だったので、当時は「フランス寺」などと呼ばれていました。

主任司祭であるプティジャン神父は、「もしかしたらまだ日本に信徒が残っているのではないか……」と一縷の望みを託して、正面に「天主堂」と日本語を掲げました。そして、献堂式から約1ヶ月後の1865年3月17日、浦上村からやってきた潜伏キリシタンたちが天主堂を訪れ、プティジャン神父に信仰を告白します。根絶やしにされたと思われてきた日本のキリシタンが再び表舞台に姿を現したのです。この「信徒発見」の奇跡は世界中に衝撃を与えました。

石造りの教会である頭ヶ島(かしがらしま)天主堂(筆者撮影)石造りの教会である頭ヶ島
(かしがらしま)天主堂(筆者撮影)

この出来事に触発されて、各地から潜伏キリシタンたちが名乗りを挙げました。しかし当時は未だ禁教下。その政策は明治新政府にも引き継がれ、結果的に、最後のキリシタン大迫害が引き起こされることになってしまいます。

1873(明治6)年にようやく禁教の高札が降ろされると、多くの潜伏キリシタンたちは宣教師の下で受洗し、カトリックの信仰に復帰しました。ようやく堂々と信仰を表明できるようになったカトリック教徒たちは各地で教会を建設します。
長崎には約130の教会があり、そのうち50あまりは五島列島に存在します。

 

長崎市内のキリスト教関連史跡

ここからは、長崎市内に残る史跡をご紹介します。

日本二十六聖人殉教地(西坂公園)

舟越保武氏制作のブロンズ像。処刑の痛ましい姿ではなく、昇天する様子が表現されている(筆者撮影)舟越保武氏制作のブロンズ像。
処刑の痛ましい姿ではなく、
昇天する様子が表現されている
(筆者撮影)

豊臣秀吉のキリシタン弾圧政策によって、1597年に宣教師6人と日本人信徒20人が処刑された丘です。
京都で捕われた24人と途中から隊列に加わった2人の計26人は、長崎まで約1ヶ月、距離にして約900キロに及ぶ受難の道のりを歩きました。敢えて長崎で処刑したのは見せしめの意図があったようですが、見物人たちは、彼らが微笑みを浮かべながら歩く様子に感動したと言います。
二十六人が処刑された小高い丘には、舟越保武氏の手によるレリーフが建立されています。

 

日本二十六聖人記念館

日本のキリスト教史を伝える日本二十六聖人記念館(筆者撮影)日本のキリスト教史を伝える
日本二十六聖人記念館(筆者撮影)

二十六聖人列聖*3から100年後の1962年に建設された資料館です。二十六聖人殉教についてはもちろん、日本のキリスト教伝来や隠れキリシタン、キリスト教美術など展示は幅広く、日本のキリスト教史を概観するうえでもぜひ訪れたい場所です。
展示をじっくり見て回った後は、2階にある「栄光の間」もぜひご覧ください。美しいステンドグラスや殉教者の祭壇があり、心の底から静かな祈りの気持ちが沸きあがります。
*3 カトリック教会において、「聖人」として正式に認められること


美しいステンドグラスには
椿の花が(筆者撮影)
記念館のモザイク壁画は、建築家・今井兼次氏によるもの(筆者撮影)
記念館のモザイク壁画は、
建築家・今井兼次氏によるもの
(筆者撮影)
 

聖フィリッポ教会

日本二十六聖人記念館とともに建設された教会です。二十六聖人の一人、メキシコ出身のフェリペ・デ・ヘススに由来します。設計はガウディを日本に紹介した建築家の今井兼次氏。特徴的なガウディスタイルの双塔は天の門を意味しているといいます。
聖堂内部は白を基調とし、ステンドグラスを通した光がやわらかく降り注ぎます。

特徴的な双塔は街中からでも目につく(筆者撮影)
特徴的な双塔は街中からでも目につく
(筆者撮影)
聖フィリッポ教会の聖堂内(筆者撮影)
聖フィリッポ教会の聖堂内
(筆者撮影)

大浦天主堂(日本二十六聖殉教者天主堂)

正面に「天主堂」の文字が掲げられている

1865年に献堂された日本に現存する最古の教会で、長崎のキリスト教史や西洋文化の影響を象徴する重要な建築物として、1953年に国宝に指定されました。二十六人の殉教者に捧げられ、西坂の丘に向かって建てられています。また、最初に触れたように大浦天主堂は「信徒発見」という歴史的な出来事の舞台となりました。大浦天主堂の献堂式から約1ヶ月後、浦上のキリシタンたちが教会を訪れ、プティジャン神父に信仰を告白します。さらに、「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ね、神父は喜んで信徒に案内したといいます。
現在も教会内にある「信徒発見のマリア像」は、この奇跡的な出来事を見守ったものです。

 
大浦天主堂
五島生まれのカトリック教徒である中田秀和氏による、信徒発見のレリーフ(筆者撮影)五島生まれのカトリック教徒である
中田秀和氏による、信徒発見の
レリーフ(筆者撮影)
 

浦上天主堂

浦上天主堂はカトリック長崎大司教区の司教座*4がある聖堂です。
1914(大正3)年に完成し、当時は東洋一の美しさと謳われましたが、1945年8月9日に投下された原子爆弾によって大破してしまいます。
原爆によって、ミサの準備のために聖堂内にいた司祭と信徒に加え、浦上村全体でも8500人もの信徒が亡くなりました。
奇跡的に破壊を免れたアンジェラスの鐘は、今もその音色を響き渡らせています。焼け跡に残った壁の一部が爆心地公園に移築されているので、併せて訪れてみてください。
*4 司教座(カテドラ)とは、教区長である司教が座る椅子のことで、この椅子が置かれた聖堂を司教座聖堂(カテドラル)という。

浦上天主堂。現在の建物は、1959年に再建されたもの(筆者撮影)
浦上天主堂。現在の建物は、
1959年に再建されたもの
(筆者撮影)
爆心地公園に移築された浦上天主堂の壁の一部(筆者撮影)
爆心地公園に移築された
浦上天主堂の壁の一部(筆者撮影)
 

如己堂

僅か二畳一間の如己堂(複製)僅か二畳一間の如己堂(複製)

熱心なカトリック教徒であった医師、永井隆博士が暮らしていた小さな病室兼書斎です。放射線医療の一線で活動していたために白血病を患っていた永井隆博士は、余命3年と診断を受けたその2ヶ月後に、原子爆弾に被爆しました。永井博士は、妻を亡くし自らも重傷を負いながら、人命救助に奔走します。やがて白血病が悪化し寝たきりになりましたが、病床で筆を取り、原爆の悲惨さと平和を訴えつづけました。
「如己堂(にょこどう)」とは、マタイによる福音書22章39節「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」から。併設された雲南市永井隆記念館では、生涯を通して隣人愛を実践した永井博士の生き様を知ることができます。

 

聖コルベ記念館

コルベ神父(マキシミリアノ・マリア・コルベ)は、ポーランド出身のカトリック司祭です。1930年に日本を訪れ、月刊誌『聖母の騎士』を出版、修道院を設立するなどして、布教活動に邁進しました。

コルベ神父の部屋の実物大模型。コルベ神父が使用していた机が置かれている(筆者撮影)コルベ神父の部屋の実物大模型。
コルベ神父が使用していた
机が置かれている(筆者撮影)

六年間の日本滞在の後にポーランドに帰国しますが、第二次世界大戦中にナチスの強制収容所アウシュビッツに収容されます。妻子ある人の身代わりを申し出て餓死監房へ送られたコルベ神父は、他の9人と共に亡くなりました。この自己犠牲の行為により、コルベ神父は1982年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖されました。
聖コルベ記念館では、神父が暮らした部屋を復元した実物大の模型や、神父の活動に関わる展示を見ることができます。

聖コルベ記念館近くの急峻な階段を登った山の上に、コルベ神父が開いた本河内ルルドがあります。山の中腹から見渡す景色は格別。いかにも巡礼の道といった趣(おもむき)があります。
ルルドとは、19世紀に聖母マリアが14歳の少女ベルナデットに出現したとされるフランスの町。ルルドの泉の水は奇跡を起こす力があると信じられ、病気や怪我の治癒を求めて世界中から巡礼者が訪れます。

永井隆博士もルルドの水で原爆で負った傷を癒されたという(筆者撮影)
永井隆博士もルルドの水で
原爆で負った傷を
癒されたという(筆者撮影)
清洌なルルドの泉
清洌なルルドの泉
 

まとめ

今回は、特に長崎市内に絞って、いくつかのキリスト教関連史跡をご紹介しました。
長崎は「キリシタン弾圧」「原爆投下」という二つの受難を経験した地です。キリシタンの歴史を知ることで、長崎を巡る旅がより意義深いものとなるでしょう。ここでは紹介しきれなかった場所もたくさんありますので、ぜひご自身の足で巡ってみてください。


参考文献:
吉田さらさ、飯田裕子『長崎の教会』JTB パブリッシング
山口百々男『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』サンパウロ
長崎文献社編、二十六聖人記念館監修『「日本二十六聖人記念館」の祈り』
長崎文献社編、カトリック長崎大司教区監修『長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』

 

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新生宣教団はキリスト教プロテスタントの団体です。 キリスト教が迫害下にある国や、経済的事情により聖書を手にすることができない国など、宣教困難国・地域のための聖書を印刷しています。 国内・海外のキリスト教団体・教会の印刷物の制作と印刷も手掛けています。

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