こんにちは、ひよこです!
みなさんは、「罪」というものがどのようなものか知っていますか?
キリスト教ではこの「罪」という言葉をよく聞きます。しかし、教会にはじめて行った人は、「あなたは罪人です」という言葉を聞いてもピンとこないと思います。
なぜなら、「別に殺人や盗みなど法に触れるような罪は犯していないけど、、」と思うからです。つまり一般的に言われている「罪」と、キリスト教で使われている「罪」の意味は少し違うのです。
今回はそんな「罪」について、キリスト教の観点から説明したいと思います!
3歳の時からプロテスタント教会に通う。東京基督教大学で神学とユースミニストリーについて学び、卒業後新生宣教団に勤める。趣味は絵を描くこと、賛美と楽器演奏(ピアノ・バイオリン・ウクレレetc...)。神様と教会が大好きな20代クリスチャン!若さを活かして読みやすい、興味を持ってもらえるような記事を目指しています!
「罪」という言葉をネットなどで調べてみると、「道徳・法律などの社会規範に反する行為のこと」と出てきます。
そのような意味合いが強いため、私たちが「罪人」と聞くと、まず不法行為や法律上の罪を犯してしまった人のことを思い浮かべると思います。しかし、聖書での罪の定義は全く違います。
聖書に出てくる「罪」はギリシャ語で「ハマルティア」ですが、その語源は「的外れ」です。
「的外れ」と聞いてもよくわからないかもしれませんが、「的」が何なのかを知れば、罪とは何なのかがよくわかると思います。
聖書の言う「的」とは、宇宙を創り、地球を創り、そして私たち人間を創った創造主である神を指しています。そして「外れ」とは背いている状態のことを指しています。
つまり「的外れ」とは、「神の方向を向かずに神から離れている」という意味になり、これをキリスト教では「罪」といいます。
ですから、キリスト教の言う罪というのは犯罪行為に限らず、私たちと神の関係を引き裂いてしまうもの全てが含まれるのです。
しかし、神から離れていると言われても、漠然としていてわかりにくいと思います。
そこでより具体的に説明すると、罪とは「神の律法に背く」ことです。聖書にもこのように書かれています。
すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である。
(Ⅰヨハネ3:4)
例えば、聖書の中には「十戒」と呼ばれる、神が人に与えられた律法(おきて)があります。
出エジプト記20:1~17または申命記55:6~21に十戒の記載があります。それは以下の通りです。
●「十戒」ついては、こちらの記事もご参考ください
みなさんはこの十戒をみてどう思われますか?
「なんだ、この10個の律法さえ守ればいいのか~」と思われた方もいるかもしれません。
確かに殺人や盗みなどはしていないかもしれませんが、9番目の「偽りの証言をしてはならない」とは、嘘をついてはいけないということなのです。
きっとこの世界で嘘をついたことがない人は一人もいないですよね。このたった10個の命令ですら完璧に守ることが難しいのに、なんとこの聖書が教えている律法は、細かく見ていくと全部で613個もあるんです!
このようにたくさんある神の律法全てを完璧に守ることができないと気がついた時、人は自分の罪に気づくのです。
聖書にはこのような言葉もあります。
義人はいない、ひとりもいない。(ローマ3:10)
聖書は神の目からみて人間は全て罪人であると語っているのです。
しかし、自分では罪を犯したいと思っていないのに、気がついたら嘘をついていたり、悪口を言ってしまったというのはよくあることですよね。
どうしてそのように罪を犯してしまうのか気になりますよね。ここからは、罪がどのようにして人間に入ってきたのかを、聖書から見てみたいと思います!
先程全ての人間には必ず罪があると言いましたが、実は、神が最初に人を創った時に人には罪というものはありませんでした。ではどのようにして入ってしまったのでしょうか。
みなさんも一度は聞いたことのある「アダムとエバ」という2人は、神が最初に創った人間です。神はこの最初の人間を善いものとして、また自由な意思と人格をもつものとして創られました。
その頃まだ人は罪を持っていませんでした。彼らは「エデンの園」と呼ばれる楽園で暮らしていましたが、ここで事件は起こります。
神はまずアダムにこのように命じます。
約束事はただ一つだけでした。つまり、「善悪の知識の木」と呼ばれる一つの木からは食べてはならず、それ以外であれば、園にあるどんな木からでも実を食べてよかったのです。
しかし、ずる賢いサタン(悪魔)が蛇に姿を変えて、まずエバに近づいてきて誘惑しました。
アダムは直接神から命じられたことを聞いていましたが、エバはアダムからそのことを間接的にしか聞いていなかったので、サタンはエバの方が騙しやすいと考えたのでしょう。
サタンがエバを誘惑した方法はこうでした。
へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。」
(創世記3:4~5)
サタンは「自分も神のようになりたい」という気持ちを刺激してエバをそそのかしました。
そのことを聞いたエバは、神との約束を破り善悪の知識の木から実を取って食べてしまいます。
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
(創世記3:6)
そしてなんとエバだけでなく、直接神から命じられていたアダムまでもが同じように食べてしまったのです。
「善悪の知識の木」という名前は、直訳では善悪を「区別する」あるいは「支配する」木という意味の言葉です。
「自分にとって、何が善であり何が悪であるかを決めるのは神である」として、神に忠実に従うか、それとも神が言ったこととは関係なく、「善悪を決めるのは自分である」とするか、アダムとエバがどちらの生き方を選ぶのかを神がテストするための掟だったと言われています。
残念なことに、アダムとエバは自分にとって何が善で何が悪であるのかを神に相談することなく、自分で勝手に決めてしまう道を選び取ってしまいます。
これこそが、人間が初めて犯した「罪」です。つまり、このように罪とは最初に説明したように、神の方向を向かずに神から離れてしまうことなのです。
罪がどのようにして人間に入ったのかはわかったと思いますが、今の私たちと一体どんな関係があるのでしょうか? 次にそのことについて見ていきましょう!
アダムとエバが罪を犯してしまった結果、その時から罪は人類に入りました。
アダムとエバの子どもたちの間で殺人事件が起きるなど、罪の影響は2人だけの問題にとどまらず、どんどん広がっていきました。
そしてそのアダムの「罪の性質」は、後に生まれた全ての人に受け継がれていくことになったのです。
「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ……」
(創世記3:18)このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり……
(ローマ人への手紙5:12)
ですからアダムの子孫である私たちもその罪の性質を受け継いでいて、生まれた時からすでに罪があるのです。
どんなに立派な人でも、偉い人でも関係なく、全ての人には生まれながらにして罪があります。そのことを「原罪」と言ったりもします。
この言葉自体はアウグスティヌス(4-5世紀にキリスト教教義の基礎を作ったとされる聖人)が作り出した表現なので聖書には出てきませんが、私たち人間の罪をわかりやすく説明していると思います。
「原罪」というのは、私たち人間がはじめから受け継いでいる罪のことを言います。
赤ちゃんは純粋に生まれてきてまだ世の中の汚れた部分も知らないので、後々罪が入ったのではないかと思われる方もいるかもしれません。
しかし少し考えてみてください。生まれてまもない赤ちゃんも、人のおもちゃを取ろうとしたりします。また、親は子どもに嘘の付き方を教えますか? 喧嘩の仕方やお友だちのおもちゃを取ること教えますか? そうなんです。誰も教えていなくても、生まれた時から罪の性質があるために、自然と罪を犯してしまいます。
ここで重要なのは、罪を犯したから罪人なのではなく、私たちは罪人であるから罪を犯してしまうということです。このことをダビデ王も嘆いています。
見よ、わたしは不義のなかに生まれました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
(詩篇51:5)
この事実は誰にも変えることができません。
ここまで罪の意味について見てきましたが、罪があっても殺人や盗みなど法にふれるようなことをしていなければ別に問題ないのでは? と感じるかもしれませんが、それは大間違いなんです!
次に、罪があるとどうなると書かれているか、聖書から見ていきましょう。
人間が罪を背負ったままではどうなってしまうのでしょうか? その答えがはっきりと聖書に書かれています。
罪の支払う報酬は死である。(ローマ6:23)
恐ろしいことに、聖書は罪の結果が「死」であると言っています。はじめの人アダムの罪ゆえに、死がこの世に入ったと書かれています。
しかし、ここでいう「死」とは、ただ肉体的な死だけを指して言っているのではありません。
「死」とは本来、創造主である神との関係が損なわれてしまっていること、神との関係が断絶状態にあることを意味しています。
神は聖なるお方なので、原罪があるままでは人は神に近づくことができずに、永遠の滅びに至るということなのです。
「永遠の滅び」と聞いてもピンと来ないかもしれませんが、これは死んだ後に「地獄」に行くということです。
地獄は聖書では「火の池」や、「ハデス」、「ゲヘナ」と呼ばれ出てきます。「天国」は確かにありますが、残念なことに「地獄」も存在すると聖書にはっきりと書かれているのです。
ということは、「人は全員生まれながらに罪がある」という先ほどの話からすると、全ての人が地獄に行ってしまうということなのでしょうか、、。
実はそうではありません。そのような死をもたらす恐ろしい罪から解放される方法がたった一つだけあります!
それは、自分の罪を悔い改めてイエス・キリストを救い主として信じることです。
これは福音とよばれるものですが、英語ではGood News(良い知らせ)と言ったりもします。
この「福音」をひとことで説明すると、「イエス・キリストが人の罪のために死なれ、墓に葬られ、3日目に蘇(よみがえ)られたこと」です。
神は罪を一つも持たない聖い方であるため、私たちは罪を持ったままでは天国に入ることができません。
人は本来、その罪ゆえに滅びなくてはいけませんでしたが、神はそんな私たちのために、約束された「救いの道」として、イエス・キリストをこの地上に送ってくださったのです。
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」
(ヨハネによる福音書14:6)
そして、イエス・キリストが私たち人間の罪の身代わりとして十字架に架けられたことにより、私たちの罪を帳消しにしてくださったのです。
キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。
(ガラテヤ人への手紙1:4)御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。
(コロサイ人への手紙1:22)
そして、この福音を自分のこととして受け入れて信じる時に、はじめて「罪」が赦されます。
福音を信じるとは、「自分が神の前に裁かれるべき罪人であるということを認め、神の憐みにすがるほかない存在であると認める」ということです。
その結果罪が赦されるだけではなく、永遠の命を得て天国に行くことができると書かれています。
人が神を裏切った結果の罪であるにもかかわらず、どうして神はひとり子イエスをこの地上に送ってくださったのでしょうか?
それは、神が私たち人間を愛しておられるからです。また、全ての人がこの福音を信じて罪から救われることを願っておられます。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
(ヨハネ3:16)
このキリストの救いを受け取ったならば、もう罪によって滅びることはありません。
しかし、もちろんこの福音を受け入れたとしても、私たちから罪がなくなるわけではないので、罪は犯してしまいます。では、そんな時はどうすればいいのでしょうか?
もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
(Ⅰヨハネ1:9)
神に自分の罪を告白したら、神はその罪を赦してくださるのです。
そのことを「悔い改め」と言いますが、残念ながら不完全な私たちは「悔い改め」の繰り返しかもしれません。
しかし神の愛は無限ですから、諦めることなく私たちを導いてくれます。大切なのは私たちがイエスとの関係を放棄しないということです。
●イエス・キリストとその生涯については、こちらの記事もお読みください!
今日はキリスト教の観点から「罪」について見てきました。
罪があるために、この世には悲しみや苦しみがあります。戦争や汚職、自然破壊に殺人など本当に多くの問題で溢れています。
日本は道徳教育に力を入れていることもあり、世界に比べると平和な国であると感じるかもしれませんが、そのため罪の意識を持たずに生活している人も多いのではないでしょうか?
しかし、法に触れるような犯罪でも、どんなに小さな嘘でも、神の目から見たらどれも同じ罪なのです。
自分でいくら頑張って善行を積み上げても救いに至ることは決してありません。ぜひ、聖書が教えるたった一つの救いであるイエス・キリストの十字架による赦しをいただきましょう!
以上ひよこでした。
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