「箴言(しんげん)」-あまり耳慣れない言葉かもしれません。この言葉には戒めの言葉あるいは人生の教訓を含む短い言葉といった意味があります。格言と言い換えたほうがわかりやすいかもしれませんね。実は聖書を開けば、人生を生きていく上で心に留めておきたくなるような、さまざまな格言に出会うこともできるのです。
今回は、人生を生きていくための知恵が詰まった、旧約聖書の『箴言』を取り上げてみようと思います。『箴言』とはどのような書物なのでしょうか? そこにはどのような言葉が収められているのでしょうか?
目次
プロテスタント教会付属の幼稚園に通い、最初に覚えた聖書の言葉は「神は愛である」。ミッションスクールを卒業し、クリスチャンになってン十年。趣味は旅行とウォーキングとパンを焼くこと。
『箴言』は旧約聖書における知恵文学のひとつとされています。
知恵文学とは、文字どおり知恵について教える文学のこと。寓話や物語、詩、謎かけや対話、論争などの多様な形式を用いて、人生や社会のさまざまな問題に答えを与える、あるいはそれらの問題に対処するための知恵、いわば処世術について教える文学を指します。知恵文学ははるか昔、紀元前の時代に古代オリエントの地において智者または賢者と呼ばれる人々によって作り出され、発達してきたもので、旧約聖書にも知恵文学に属する書物が収められています。そのひとつが『箴言』です。
39巻から成る旧約聖書は大きく「律法」、「歴史書」、「詩歌書」、「預言書」の4つに分類されます。『箴言』はこれらのうち「詩歌書」に含まれ、同じくこの分類に属する『ヨブ記』や『伝道の書』なども知恵文学とされています。これらの書は形式こそ異なりますが、いずれも人間と神とのかかわり、神への信頼または信仰の問題と絡めて、人間がこの世界で生きていく上で必要とされる知恵について語っています。
さて、知恵文学である『箴言』、これは誰によって書かれた書物なのでしょうか?
ダビデの子、イスラエルの王ソロモンの箴言。(箴言1:1)
『箴言』はこのような言葉から始まります。ソロモンといえば、イエスが語った次の言葉が有名ですね。あまり聖書を読んだことのない人でも、どこかで聞いたことがあるのではないでしょうか?
ソロモンはダビデ王を父に持つイスラエルの第3代目の王でした。ソロモンは神を愛し、神を畏(おそ)れていました(※1)。
あるとき、ソロモンは夢の中に現れた神に「何を求めているか」と聞かれ、善悪をわきまえて、民を正しくさばくための知恵を与えてくださいと願いました。そして神は、自分のために長命や富を求めなかったソロモンに知恵を与え、加えて富と誉れまでも与えることを約束しました(列王記上3:3-14、歴代志下1:7-12)。
その約束どおり、ソロモンは知恵と富を与えられ、多くの人がソロモンのもとへその知恵を聞きにやって来ました。
神はソロモンに非常に多くの知恵と悟りを授け、また海辺の砂原のように広い心を授けられた。ソロモンの知恵は東の人々の知恵とエジプトのすべての知恵にまさった。(列王記上4:29、30)
このようにソロモン王は富も知恵も、地のすべての王にまさっていたので、全地の人々は神がソロモンの心に授けられた知恵を聞こうとしてソロモンに謁見を求めた。(列王記上10:23、24)
『箴言』の冒頭に「ソロモンの箴言」とあるので、ここだけを見れば、『箴言』にある格言はソロモンが語ったものなの?と思うでしょう。
しかし、実は『箴言』の著者に関する定説はないようです。「ソロモンの箴言」との記述は冒頭のほかにもありますが(10:1、25:1)、一方で「マッサの人ヤケの子アグルの言葉」(30:1)、「マッサの王レムエルの言葉」(31:1)(アグルやレムエルはここに名前が出てくるのみで、どのような人物であったのかに関する情報はありません)、「知恵ある者の箴言」(24:23)などの記述も見られます。
また、『箴言』における多くの格言に、「アメンエムオプトの教訓」をはじめとする古代エジプトの知恵文学との類似性が認められることから、古代エジプトの知恵文学が『箴言』に影響を与えたともいわれています。『箴言』は特定の著者が統一性をもって執筆したものではなく、長い年月にわたり古代の人々の間で語り継がれてきた知恵の言葉を集めてまとめられたものであることが窺(うかが)えるのです。
では、なぜ冒頭に「ソロモンの箴言」とあるのでしょうか? その点については、知恵の象徴ともいうべきソロモンの名をもって人々の間で語り継がれてきた知恵の言葉が『箴言』に収められているからだという説もあれば、『箴言』の主要な部分は確かにソロモンの箴言であり、『箴言』の中心的な貢献者はソロモンだからだという説もあるようです。
『箴言』の冒頭では、ソロモンの名に続き、次のように書かれています。
これは人に知恵と教訓とを知らせ、
悟りの言葉をさとらせ、
賢い行いと、正義と公正と
公平の教訓をうけさせ、
思慮のない者に悟りを与え、
若い者に知識と慎みを得させるためである。
(箴言1:2-4)
『箴言』の目的は、人に知恵と教訓を教えること、とくに「思慮のない者に悟りを与え」、「若い者に知識と慎みを得させる」ことにあると、ここで語られています。
『箴言』は、その読者を知恵のある人とすることを目的にしていると言えるでしょう。
ここでいう「知恵」(ヘブル語のhokma、ホクマー)は『箴言』の核となる言葉であり、『箴言』の冒頭だけでなく、書巻全体を通じて、さらには旧約聖書におけるほかの知恵文学においても多く使われています。また、「知恵ある人」(hakam、ハーカム)という言葉も書巻全体を通じて使われています。
信仰のあるなしにかかわらず、多くの人は知恵のある賢い人になることを望んでいるのではないでしょうか? それはなぜか? おそらくそれは、人生の中で起こるさまざまな問題にうまく対処しながら、自分らしく充実した人生を送りたい、そのためには知恵や賢さが必要だから、ではないでしょうか?
『箴言』には、その書かれた目的にしたがい、古代から長く教え継がれてきた知恵の言葉がたくさん並んでいます。
古代に生きた人々もまた、人生で多くの困難に遭い、課題や悩みを抱え、現代に生きる人々と同じように知恵や賢さを求めていたからこそ、多くの格言が生まれ、それが『箴言』にも反映されているのでしょう。古代から現代まで、何千年もの間に世界や環境がどれほど変わろうとも、神の創造物たる人間の本質は変わらないということなのかもしれません。
さて、ここで、『箴言』が教える知恵は、神への畏れ、神への信仰と切り離せないものであるということにもしっかりと目を向ける必要があります。
知恵に近い言葉として、『箴言』によく出てくる言葉の一つが「知識」(da’at、ダアト)です。知識とは、一般的には何かを知っていることを指し、日々の勉強によって得られるものも知識です。これに対して、知恵とは、知識を活かしてものごとに対処する能力を指します。しかし、『箴言』における知識は、単に何かを知っている、理解しているということではなく、知恵もまた、単にものごとに対処する能力を指しているわけではありません。
それでは、『箴言』の教える知恵とは、いったいどのようなものなのでしょうか?
『箴言』では、神(主)を知ること、神を畏れることが知識のはじめであり、知恵のもとであると語られています。知識は知恵と同義ではありませんが、知識は知恵の一側面と言えます。
主を恐れることは知恵のもとである、
聖なる者を知ることは、悟りである。
(箴言9:10)
わたしたちは人生を生きていく中で、日々のささやかな生活においてさえ、さまざまな判断を下しながら、さまざまな選択をしています。その積み重ねが人生とも言えます。ときに大きな決断を迫られることもあれば、自分の判断にしたがって、何か行動を起こすことを求められることもあります。
そのようなとき、適切な判断を下し、正しい選択をするために必要とされるのが知恵です。その知恵のもとは神を畏れることであると『箴言』では語っています。自分の思いのみによらず、神への畏れをもってなされる、神のみこころにかなった選択こそが正しい選択である、というのが聖書の教えでもあります。だから、まずは神の存在を認めることが求められているのでしょう。
自分の力だけに頼って自分の人生を生きようとするのではなく、神の存在を認めて神に頼ること、神に委ねること、それこそが知恵であると言い換えることもできるかもしれません。『箴言』にはこんな教えもあります。
あなたのなすべき事を主にゆだねよ、
そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。
(箴言16:3)
『箴言』の語る知恵。それは、人間と神との関係の中で神から与えられるものです。
これは、主が知恵を与え、知識と悟りとは、み口から出るからである。
(箴言2:6)
ソロモンは知恵を与えてくださいと願い、神はその願いに応えて、ソロモンに豊かな知恵を与えました。実はソロモンだけでなく、たとえば、『詩篇』119篇の作者も、「知恵を与えてください」と何度も神に祈っています。その祈りを見てみましょう。
あなたのみ手はわたしを造り、
わたしを形造りました。
わたしに知恵を与えて、あなたの戒めを学ばせてください。
(詩篇119:73)
わたしはあなたのしもべです。
わたしに知恵を与えて、
あなたのあかしを知らせてください。
(詩篇119:125)
真の知識も知恵も、自分の力で得られるものではなく、謙虚な祈りをする者に神から与えられる賜物(たまもの)なのです。
最後に、『箴言』に収められている格言を見てみましょう。
実は、『箴言』を読むと、何を意味しているのかがすぐにはわからないような難解な表現、まるで謎解きのような表現がとても多く、しかも多くの比喩が使われています。そのため、『箴言』を読み、理解するためにも知恵が必要とされるほどです。
ここでは、『箴言』に収められている格言のごく一部ですが、比較的わかりやすいものをいくつかのテーマに分けて並べてみます。その中には、おそらく誰もが子どもの頃に読んだことのあるイソップ童話の『アリとキリギリス』を想起させるものもあることに、きっと気づくでしょう。
知恵はその家を建て、
愚かさは自分の手でそれをこわす。
(箴言14:1)
知恵を得るのは金を得るのにまさる、
悟りを得るのは銀を得るよりも望ましい。
(箴言16:16)
知恵ある者は強い人よりも強く、
知識ある人は力ある人よりも強い。
(箴言24:5)
心に憂いがあればその人をかがませる、
しかし親切な言葉はその人を喜ばせる。
(箴言12:25)
柔らかい答は憤りをとどめ、
激しい言葉は怒りをひきおこす。
(箴言15:1)
人は口から出る好ましい答によって喜びを得る、
時にかなった言葉は、いかにも良いものだ。
(箴言15:23)
なまけ者の心は、願い求めても、何も得ない、
しかし勤め働く者の心は豊かに満たされる。
(箴言13:4)
なまけ者の道には、いばらがはえしげり、
正しい者の道は平らかである。
(箴言15:19)
勤勉な人の計画は、ついにその人を豊かにする、
すべて怠るものは貧しくなる。
(箴言21:5)
少しの物を所有して主を恐れるのは、
多くの宝をもって苦労するのにまさる。
野菜を食べて互いに愛するのは、
肥えた牛を食べて互いに憎むのにまさる。
(箴言15:16-17)
平穏であって、
ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、
争いがあって、食物の豊かな家にまさる。
(箴言17:1)
富を得ようと苦労してはならない、
かしこく思いとどまるがよい。
あなたの目をそれにとめると、それはない、
富はたちまち自ら翼を生じて、
わしのように天に飛び去るからだ。
(箴言23:4-5)
人の高ぶりはその人を低くし、
心にへりくだる者は誉れを得る。
(箴言29:23)
いかがでしたか?「知恵」という、ちょっと難しい話になりましたが、旧約聖書にある『箴言』がどのような書物なのかを少しでもお伝えできていればよいなと思います。
今から数千年も昔の人々にとっても、人生を生きていくことはたやすいことではなかったからこそ、生み出されてきた多くの箴言。世界が一層複雑さを増し、混沌としている今の時代、多くの人々が『箴言』の教える知恵を必要としているのではないでしょうか?
自分が日々生きていく中で心に留めておきたいと思う言葉、自分の人生をよりよいものにするためのヒントとなる言葉を、聖書の中に探してみませんか?
参考文献:
「『箴言』の読み方-命に至る人生の舵取り-」
(トレンパー・ロングマン著 楠 望 訳、あめんどう 2023年)
「新共同訳聖書 聖書辞典」(新教出版社 2001年)
●こちらの記事もどうぞ
Copyright © 新生宣教団 All rights reserved.