こんにちはTaroです。しばらく前に遊牧民のおよその生活をお伝えしながら、旧約聖書の族長たち(アブラハム、イサク、ヤコブ)の歩みを概観しました(遊牧生活を知ると聖書がわかる!?①)。
聖書には遊牧(牧畜)にまつわる記述が大変多いことは前回お伝えした通りですが、中でも羊飼いそのものに焦点を当てた記述は、聖書の真理を知るのに大きな意味をもつと思われます。
そこで今日は、旧約聖書から羊飼いダビデの姿と、新約聖書からイエスが語られた良き羊飼いについて見ていきたいと思います。
目次
プロテスタント教会の信徒で新生宣教団の職員。前職から印刷に関わり活版印刷の最後の時代を知る。 趣味は読書(歴史や民俗学関係中心)。明治・江戸の世界が垣間見える寄席好き。カレー愛好者でインド・ネパールから松屋のカレーまでその守備範囲は広い。
ダビデという名前は、聖書だけではなく世界史でもお聞きになったことがあるでしょう。イスラエルが最も繁栄したのがダビデとその息子ソロモンの時代だとされています。
ダビデは12部族の1つユダ族の子孫になるのですが、その父はエッサイ、祖父はオベデといって、そのオベデはボアズとルツの息子です。このルツとボアズの出会いは素敵なお話なのでルツ記を一度お読みになってみてください。ちなみにこのルツという人は、モアブ人の女性ですが、敬虔なユダヤ人の姑ナオミの人柄とその信じる神に惹かれて、未亡人になった上でも母国を離れ、ナオミについてイスラエルにやってきた女性です。ダビデ自身には異邦人の血が入っているのですね。
そしてダビデの血筋からイエスの父となるヨセフが出ています。
イスラエルの初代王はベニヤミン族出身のサウルでした。イスラエルの国は神ご自身が治めるはずでしたが、度重なる外敵からの侵略により、イスラエルの民は周辺各国のように目に見える統治者「王」を求め始めます。預言者サムエルは「イスラエルのあり方はそれで良いのか?」と問題提起をしますが、民にその求めが強く、神はそれを不本意ながらもお認めになりました。
選ばれたのは
結局、イスラエルで最初の王に選ばれたサウルは、残念ながら神様との関係を良好にもつことができなくなり、程なくその選びはダビデに移っていってしまいました。
サウルに替わる王としてサムエルが探しに行った先がエッサイの息子たちのところでした。その時その末っ子は一人だけサムエルの前には現れず、羊の番をしていたといいます(Ⅰサムエル16:11)。任命すべき男子を兄たちの内に見出すことができなかったサムエルはエッサイに「息子はこれだけですか」と聞き、「実はもう一人…」ということで呼び出されたのが、末っ子のダビデでした。
サウルが王位にある間、イスラエルでは対外的に多くの戦いがありました。ペリシテ人との戦いもその一つですが、多くの戦闘の中でダビデを有名にしたのはペリシテの巨人ゴリアテを倒した時でした。
ペリシテ人との戦闘では、巨人ゴリアテ(2mを超える)の挑発に誰もが尻込みしてしまい、受けて立つ者がありませんでした。その時、たまたま父の依頼で兄たちの安否を確かめに、差し入れを持参してやってきたのがダビデでした。彼は、ゴリアテの言葉がイスラエルの神を冒涜するものだったため、これは神の戦いであると奮い立ちます。
そしてダビデは槍や鎧などの武具を身につけることなくあっけなく勝利したのですが、これは、彼が羊を猛獣から守るために日頃から行っていた石と石投げ器によってでした。
石投げ器といっても構造は簡単なものです。紐の中央部分を広めにしたもので、そこに石を置き両端を持って遠心力で回し、片側を離すと石が目標めがけて飛び出すというだけのものです。実は現代でも地域によっては石投げ器は遊牧民によって使われているといいます。
ダビデがゴリアテを倒し、イスラエル軍がペリシテ人との戦いに勝利したことで、ダビデの名声は一気に高まり、サウル王によって取り立てられることとなりました。しかし、ダビデが数々の軍功を上げてイスラエルに益をもたらすにつれて、それが逆にサウル王の妬みを買うことになってしまいました。ダビデの軍功とその人気に、サウル王は次第に自らの王位を心配し始めます。ついにはダビデはサウル王から命を狙われるまでになり、わずかな仲間とともに隣国の食客となったりしながら、逃亡生活を送ります。実はその間、2度もサウルを打つ機会を得ながら、逆に疑いを晴らすことに努めました。神に選ばれた王に弓を引くことは、神の義に反することと考えたためでした。
残念ながら本当の和解を得られないままに、サウル王はペリシテ人との戦いに敗れ、三人の息子と共に命を落としてしまいました。その出来事がダビデの転機となり、ペリシテ人や周辺諸国との戦いに勝利をし、イスラエルの王となるのです。
詩篇23篇は、旧約聖書でも最も愛され親しまれている箇所だと言われ、聖書全体でも大きく人気のある箇所です。作者は、このダビデだと言われています。皆さんも目にし、耳にしたことがあるのではないでしょうか。まずは全文読んでみましょう。
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。
わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
(詩篇23篇)
羊飼いの経験があるダビデは、羊の性質をよく知り、また羊飼いが何をすべきであるかを熟知していました。羊は自らの群れの中にリーダーをもたず、近視眼的で、状況判断して自ら動くということが出来ない動物だと言われています。うっかり群れから離れてしまうとたちまち野獣の餌食になってしまいます。それだけに羊飼いは羊の群れには注意を払って導いています。
牧草地、そして水のある場所に導くこと、危険な道を安全に通り過ごさせることも大切な役目です。
ダビデは王になり、民を導く立場になったのですが、ここでは自らが導かれるべき羊であり、信頼すべき羊飼いが神様であると語っています。
ダビデは、前王サウルに追われて逃亡生活を送ったり、息子アブシャロムの反乱により逃亡生活を送ったりと多くの危機を通ってきました。飲食の欠乏ばかりか、死の一歩手前まで追い込まれながらも、都度神様の助けにより脱出してきました。その度に、自らの存在の不確かさを思い、神様への信頼が強められていったことでしょう。
この詩篇が、ダビデのそのような境遇から生み出されたものであるがゆえに、現在に至るまで多くの人たちを励まし慰めるものになっているのでしょう。愛され続けているのもうなずけますね。
こちらも有名な新約聖書のたとえ話です。ご存知の方も多いと思います。
そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、
「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、
家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。
よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
(ルカ15:3~7)
神様の思いが伝わるたとえ話ですね。以前「放蕩息子のたとえ」をご一緒に読みましたが(詳しくはこちら)、元々一緒にいた息子が迷い出てしまい、その関係が途絶えてしまった。他にもいるからしょうがないというのではなくて、何とか見つけ出して関係を取り戻したい。その一人、その一匹がかけがえのない存在なのだ! そんな神様の思いを感じます。「放蕩息子のたとえ」はこの「失われた一匹の羊のたとえ」に続いてイエスが語られたお話です。
続いてイエスが語られた、「よき羊飼いのたとえ」を見ていきましょう。これはイエスが自らを羊飼いになぞらえて語られた言葉です。
わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。
だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。
(ヨハネ10:11~18)
14節に「わたしの羊を知り」とありますが、現代のベドウィンへのインタビューで「数百匹の羊の顔の見分けがつくのか」という問いに、彼らは「全てわかる」と答えていました(但し、群れと群れのトラブル防止のために、今では耳にペンキで番号をつけて区別出来るようにしているとのことです)。
さて17節、18節に気になる言葉があります。それは「自分の命を捨てる」ということです。それも自分からそれを捨てるというのです。どういうことなのでしょうか。
猛獣に襲われそうになった時に、一匹の羊も犠牲にしない覚悟で戦うことはあると思いますが、その身に危険を感じた場合には、さすがに自分自身が犠牲になって羊を守る者はいないでしょう。確かに羊は生活の糧であり大事でしょうが、自分が死んでしまっては元も子もないと思うのが当たり前です。
それからまた、明らかに現実の羊飼いとは違う話が出ています。それは、父の存在で、「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さる…」「これはわたしの父から授かった定めである」と語っています。
またこうも言っています「命を捨てるのは、それを再び得るため」、「わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある」
順々に読んでいくと、
明らかに、「日々羊の面倒をみる。時に敵とも戦う」という立ち位置ではなくて、「羊のために命を捨てることが定まっている(前提である)」というところに立っています。
どうやらこれはイエスご自身が、「人びとの罪からの
このことを計画したのは父(神様)であり、羊たち(私たち)への愛ゆえに払われた犠牲なのであると、聖書は語っているのです。
いかがでしたか。旧約聖書の詩篇23篇も、またイエスのたとえ話も、遊牧民ならではの言葉でしたね。彼らにとってまさに馴染みある日常生活からの言葉だけに、我々よりはるかによくわかったのではないでしょうか。
さて、私たち自身のこととして読んでみましょう。神様の目からは、我々は愛しい一匹一匹の羊。迷いやすく恐れやすく、ある意味助けが必要な存在です。羊飼いは羊の数が多くとも一匹一匹をよく知り、その特徴も理解しているといいます。
そんな私たち(私自身を)をよく知り、命がけで導いてくれる牧者、それがイエス・キリストですね。それは罪の
私たちは心を開いて愛なる神様を受け入れるならば、無条件で群れの囲いの中に導き入れられ、その羊飼いの配慮の内をいつまでも信頼して歩むことができます。
ダビデがうたった詩篇23篇を、日々祈りの言葉として唱えることをおすすめします。良き羊飼いイエス・キリストを思いながら味わっていきましょう。きっと励ましと慰めが増し加わりますよ。
では。
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