こんにちは、ひよこです!
みなさんは、「モーセの十戒」という言葉を聞いたことがありますか?
モーセが海を割るシーンで有名なあの『十戒』という映画の中にも出てきますが、モーセの十戒というのがどのようなもので、どのような意味があるのかを知らない人も多いと思います。
そこで今日は、モーセの十戒について、わかりやすく解説していこうと思います!
最後に映画の紹介もしているので、興味のある方はぜひ解説で少し詳しくなったところで映画も見てみてください!
●モーセが登場するのは旧約聖書の『出エジプト記』です。旧約聖書については、こちらの記事もご参考ください
3歳の時からプロテスタント教会に通う。東京基督教大学で神学とユースミニストリーについて学び、卒業後新生宣教団に勤める。趣味は絵を描くこと、賛美と楽器演奏(ピアノ・バイオリン・ウクレレetc...)。神様と教会が大好きな20代クリスチャン!若さを活かして読みやすい、興味を持ってもらえるような記事を目指しています!
「モーセの十戒」とは、一言で説明すると、「神が人々に与えた10個の決まりごと」のことです。
それを代表して受け取ったのがイスラエルのリーダー「モーセ」でした。モーセが十戒を受け取るまで、そしてその後のストーリーについては、旧約聖書の「出エジプト記」に詳しく書かれています。
そこに書かれている内容や、モーセという人物についてまず簡単に説明してから、十戒の内容と意味をみていきたいと思います!
「出エジプト記」というのは、名前の通りエジプトから脱出するという意味で、“出発”を意味するギリシャ語の“エクソダス”から来ています。
この出エジプト記の主人公は紛れもなくモーセです。モーセが奴隷だったイスラエル人を引き連れて、エジプトを脱出する様子が描かれています。
モーセが生まれた時代は、イスラエル人がエジプトの奴隷となっていた時代でした。
それは、エジプトの王ファラオが増え続けるイスラエル人を恐れ、重労働を課していたからです。
しかし、ファラオの計画はそれだけではとどまらず、新たに生まれたイスラエル人の男の子を全員殺すように命じます。そのような危機的な状況の中で、モーセはなんとイスラエル人の家庭に生まれました。
モーセの母は赤子のモーセを殺さず隠していましたが、隠しきれないと思い、殺すのではなく籠(かご)に入れてナイル川の岸に置いておきました。
するとモーセはエジプトの王女に拾われ、エジプトの王子として育てられました。
王子として立派に成長したモーセでしたが、同胞のイスラエル人がエジプト人に虐げられているのを目撃し、そのエジプト人を殺害してしまいます。
モーセはそのことを知ったファラオに殺されそうになりますが、ミディアンという地に逃げてそこで40年間隠れてすごしました。
そんなある日、神から「奴隷として虐げられているイスラエル人たちを率いてエジプトから脱出し、カナンの地を目指しなさい」という大きな使命を与えられました。
こうしてモーセはエジプトへと戻り、イスラエル人の解放を求めてファラオと対立することになりました。
この戦いに勝利したモーセは、イスラエルの人たちを率いてカナンの地を目指します。(カナンを目指している途中で追ってくるエジプト人から逃げるために、モーセが海を割って渡っているあの有名なシーンはこの部分です。)
エジプトを脱出しカナンを目指している旅の途中、シナイ山でモーセは神から、2つの石板に刻まれた十戒(律法)を授かります。それがあの“モーセの十戒”と言われているものです。
この出来事は、神とイスラエルの人たちとの間に契約関係が成立したことを象徴していて、「モーセ契約」や「シナイ契約」と呼んだりもします。
モーセの「十戒」は、「じゅっかい」ではなく、「じっかい」と読みます。
出エジプト記20:1~17または申命記5:6~21に十戒の記載があり、この掟は神とイスラエルの人たちとの間で結ばれた契約でした。
400年間エジプトで奴隷として主人の命令だけを守っていたイスラエルの人たちは、突然自由な生活がはじまってもどのように生きればいいのかが分からず難しかったと思います。
そのような中でこの十戒は正しく生きるための指針として用いられました。
しかしモーセの律法はこの10個だけではありません。神から与えられたモーセの律法は613の命令から成り立っていて、その最初にでてくるものがこの十戒なのです。同時にこの十戒は600以上もある律法の要約とも言えるでしょう。
十戒は前半と後半の大きく2つに分類することができます。前半の1~4の戒めは神と人との関係、後半の5~10の戒めは人と人との関係を表しています。
では十戒とはどのような内容なのか具体的にみていきたいと思います!
十戒は本来、イスラエルの民全体に与えられているものですが、戒めには「あなたがた」ではなく、すべて二人称単数の「あなた」という言葉が用いられています。イスラエルの民一人一人が、神との関係の中でこの戒めを守る必要があったことがわかります。
あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
出エジプト記20章3節
これは、唯一の本当の神以外を礼拝してはならないという命令です。
日本では八百万(やおよろず)の神という言葉をよく聞きますが、当時の人たちも至る所に神が存在していると考え、月や太陽を礼拝する習慣がありました。神は「そのように神でないものを神としてはいけない」と教えられました。しかしその対象は形のあるものとは限らず、名誉や地位などを唯一の神以上に大切にしてしまうことも、他の神を拝むことになってしまうのです。
これは、目に見える神の肖像や偶像を造ってはならないという命令です。神を実際に目でみたことがない私たちには正確に神を描写することはできません。神を象徴する偶像を造ることは、偽の神を礼拝することになってしまうのです。
自分で見て触れることのできる偽物の神を造って、それを拝んで安心しようとする人間の弱さを神はよくわかっていたからこそこのような戒めを与えました。
あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
出エジプト記20章4節
よく“神に誓って”、“マジ神”、“神業”というような言葉を聞きますが、そのように神の名をいいかげんな誓いをするために使ったり、むやみやたらに唱えることはいけないことだと教えています。
名前というのは存在を表す大切なものでもあります。神の名を尊敬し、いつも真剣な心で呼び求めることの大切さをここでは教えています。
あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。
出エジプト記20章7節
安息日というのは、仕事や労働などをしてはいけないと定められている日のことで、1週間のうちこの安息日の1日を神を礼拝するために捧げることを教えています。
「聖なる日とせよ」というのは、他から切り離して、そのすべてを主のものとすることです。
安息日を覚えて、これを聖とせよ。
出エジプト記20章8節
ここからは人と人との関係に関する決まりになりますが、この戒めは文字通りいつでも自分の両親を尊敬しなさいという命令です。敬うとは、感謝して従うことともいえるでしょう。
両親を大切にする人には大きな祝福が与えられると、神は約束しているのです。そして両親を敬うことは、親を与えた神を敬う事にもつながるのです。
あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
出エジプト記20章12節
これは、計画的にほかの人間を殺してはならないという命令です。神はすべての人を「神に似せて」創造し、その一人一人を愛しているのです。ですからもし人を殺すならばそれは主の存在を否定することにもなるのです。
しかし、これは単なる物理的な人殺しだけを指しているのではなく、人に対して怒りや憎しみを抱くことも殺人と同じであると新約聖書のマタイの福音書に書かれています。
あなたは殺してはならない。
出エジプト記20章13節
姦淫(かんいん)というのは、すでに結婚している人が結婚相手以外の人と性的な関係を持ってしまうことです。つまり、自分の配偶者以外の人と性的な関係を持ってはならないという命令です。
しかし、これもまた物理的なことだけを言っているのではなく、異性を性的な目でみるだけで姦淫になってしまうと同じくマタイの福音書に記されています。
あなたは姦淫してはならない。
出エジプト記20章14節
これは、私たちのものでないものを、その持ち主の許可なしに取ってはならないという命令です。
神は人間に必要なものをすべて与えてくださっているのです。ですから人の物を盗むのは神がすでに与えている祝福を無視することになってしまいます。
あなたは盗んではならない。
出エジプト記20章15節
偽証というのは、偽りの証言をすることで、簡単に言えば“嘘”のことです。つまり、ほかの人に対して嘘をついたり、だましたりすることを禁じた命令です。
あなたは隣人について、偽証してはならない。
出エジプト記20章16節
あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。
出エジプト記20章17節
これは、家に限らずあなたのものでないものは何でも欲しがってはならないという命令です。
他人のものをむやみに欲しがることは、上記の戒めのどれかを破ることにもつながります。人のものが欲しいからこそ盗み、人を殺し、姦淫し、そのために嘘をもついてしまうからです。
上記の十戒の内容をみてみると、とても厳しいことを神がイスラエルの人々に求めているように感じるかもしれません。
しかしこれらの戒めは、すべて守ることによって救われるというような救いを教えたものではありませんでした。これらの律法が与えられたのは、罪人を救うことではなく、罪人を救い主である神へと導くためだったのです。
なぜなら、十戒を含めた613もの律法を一つも破らずに守ることが出来る人は誰もいないということを神は最初から知っていたからです。
これらの教えがあるからこそ人々が罪とは何かを考え、人々はこれらの律法をすべて守ることのできない弱い人間であるということを自覚し、神の救いと導きがなければ生きていくことが出来ないということを知るのです。
しかし、後にこの世で唯一全く罪を持たない方がこの地上に来られました。それが、神が人となって来られたイエス・キリストです。
イエスは十戒をはじめとする全ての律法を守り、さらには一つも罪を持たない存在として全人類の罪の身代わりに十字架にかかりました。
そのことによって、“新しい契約”とよばれるものが人々に与えられました。それはモーセの律法を行うことによって義(正しい)とされる契約ではなく、キリストの贖罪を信じることによって義(正しい)とされる契約です。そして、「モーセの律法」は無効になり、「キリストの律法」とよばれるものが人々に与えられました。その内容はマルコの福音書12:29~31にあります。
イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。
心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。
マルコによる福音書12章29節
つまり、キリストの律法とは、心、いのち、知性すべてを尽くして神を愛して、自分自身のように隣人を愛しなさいというものです。
また、この2つの教えは「モーセの律法(十戒)」の要約でもありました。
モーセの律法はイスラエルの人々に与えられたもので、クリスチャンに与えられたものではありませんでした。しかし、このキリストの律法は神を信じる全ての人が守るように教えられているのです。
もちろんこれらの教えも、強いられていやいやながらにするものではなく、神に赦され救われた者として喜びをもって守るものなのです。
『十戒』(原題:The Ten Commandments)は、旧約聖書の「出エジプト記」を壮大なスケールで映画化したスペクタクル史劇で、ハリウッド創成期の巨匠セシル・B・デミル監督が、1923年に手がけた「十誡」を自らリメイクしたものです。
タイトルは「十戒」になっていますが、実際は十戒だけにフォーカスが当てられているわけではなく、出エジプト記の概要のような内容になっています。
紅海が割れてモーセとイスラエルの民が海底を歩いて渡るシーンや、シナイ山で石版に十戒が刻まれるシーンは大迫力です! 聖書の内容は少し難しい。。という方でも、歴史背景を踏まえながらわかりやすく聖書の内容を理解することができるのでおすすめです!
モーセの十戒をはじめとする613の律法をすべて守ることができたとしても、イエスによる救いがなければそれらは6・1・3(無意味)とクリスチャンの間では言ったりもします。しかし、イエスが教えたキリストの律法、つまり“神と人を愛すること”を守るとき、自然とモーセの律法をも守ることができるのです!
難しい律法を学び、それらの命令を守ることに必死になるのではなく、イエスに救われた者として喜びをもって、ただただ愛の実践をしていくことが大切なんですね!
今日はモーセの十戒をはじめとして、イスラエルに与えられた律法やキリストの律法についてもお話しました。もしかしたら、「聖書の神は決まり事ばかりつくって厳しいな、、」と思われた方もいるかもしれません。しかし本当はむしろその逆で、親が子どもを愛して守るために「〇〇時までには家に帰ってきなさい」というようなルールをつくるように、神様も私たち人間を愛しているからこそ、このように教えているんですね!
以上ひよこでした。
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