2024年発行の新五千円札の顔にも選ばれた津田梅子(つだ・うめこ)は、日本の女子教育に人生をかけ、日本の近代化の礎を築いた人物の一人として知られています。
その父である津田仙(つだ・せん)もまた、未来を見つめ、国の近代化と市民のために力を尽くした先駆者でした。
そんな津田梅子と津田仙は、当時日本では珍しかったキリスト教徒でした。この記事では特に、津田梅子の人生を簡単にご紹介しつつ、梅子がどのようなクリスチャンであったのか、その人生に信仰がどのような影響を及ぼしたのかなどを、梅子の言葉なども交えつつ考察してみたいと思います。
牧師家庭に生まれ育つ。熱血牧師だった両親への反動で、ゆるふわに育ってしまった。 趣味は散歩、パン作り、刺繍など。難解でお堅いイメージのある聖書&キリスト教ですが、文的にも、見た目的にも、できるだけわかりやすく親しんでもらえたらよいなと思っています!
津田梅子が生まれたのはちょうど幕末から明治に切り替わる直前、元治元年(西暦1864年)の事でした。廃藩置県(はいはんちけん)から初めての内閣発足と、まさに明治維新の目まぐるしい時代に、女性の地位向上のための女性教育に人生を燃やした女性です。
梅子の父 仙は、当時としては珍しく英語やオランダ語に精通したかなり先進的な思想の持ち主で、幕府の外国奉行にも携わった人物でした。その仙の勧めによって、1871年、梅子はなんと6歳にして岩倉使節団の一員として渡米留学し、11年間をアメリカで過ごすこととなったのです。梅子の他に4人の女子も留学しました。日本人初の女子留学生でした。5人の中でも最年少であった梅子は、アメリカ・ワシントンのランマン夫妻の元に滞在しつつ勉学に励みました。
8歳のころに日本政府によるキリスト教の禁教が解かれると、ランマン夫妻に連れられて教会に通っていた梅子は洗礼を志願し、アメリカで受洗しました。渡米当初は二言三言の英単語しか知らなかった梅子ですが、勤勉に励み、非常に優秀な成績で高校を卒業して日本に帰国しました。
梅子はアメリカ滞在時から、「日本の女性のための学校を作りたい」という志を持っていて、共に留学した留学生たちとその誓いを立てていました。
帰国後は使節団として共に渡米した伊藤博文宅で、英語や西洋文化について教える住み込みの家庭教師として働き、そののち伊藤博文の采配で華族女学校(現在の学習院大学)で、英語教師として教鞭をとることとなりました。
その後梅子は再びアメリカの大学で学ぶために単身渡米し、3年間アメリカで学びました。梅子の優秀さに、研究室の恩師からは「研究者にならないか」と勧められ、梅子はまたとないこの話に葛藤しましたが、日本の女性の教育と地位の改革に使命感を持っていたため、この話を断り日本に帰国しました。
再び華族女学校で教鞭をとる中、アメリカやイギリスへ招かれる機会があり、ヘレン・ケラーやナイチン・ゲールとも会い、大きな刺激を受けました。そうした中で梅子は、華族女学校での華々しいキャリアを手放して、かねてからの夢であった自分の学校を作ることを決意しました。梅子が作ったのは、英語教員を育てるための女学校でした。梅子は女性が自立するためには、なによりも安定した職を手にする必要があると考えました。当時女性でも安定的な地位につける職は、特別な教育が必要な英語教師ぐらいだったのです。
これまでの数々の友人たちにも助けられて開校した「女子英学塾」は、はじめは小さい古民家で、十名の生徒からはじまりました。梅子は非常に情熱的で厳しい先生でしたが、次第に高いレベルの英語教育が身につく女子学校として評判となり、生徒も増えていきました。女子英学塾は関東大震災などの幾多の困難を乗り越えて大きく成長し、後の津田塾大学となりました。
6歳にして親元を離れ、一人アメリカの地で暮らすことはどんなに心細い事でしょうか。言葉も十分にわからない状態で、ワガママを言うことさえできません。
そのような梅子を受け入れたランマン夫妻は熱心なクリスチャンで、とても愛情豊かな人々でした。ランマン夫妻は当時のアメリカでもかなり裕福な家庭でしたが、子どもが無く、梅子を我が子のように育てました。
ランマン夫妻は日曜日ごとに梅子を教会につれて行きましたが、信仰を強要するようなことはけっして無かったようです。
しかし渡米間もない1873年に日本でキリスト教禁教が解かれると、梅子は自らランマン夫妻に受洗の希望を申し出ました。牧師は当初、梅子に幼児洗礼を授けようと考えていたそうですが、梅子の信仰がしっかりしているのを見て、大人の洗礼を授けたといいます。
日本でその知らせを受けた梅子の両親、仙と初子もまた日本で教会に通い始め、やがて洗礼を受けました。西洋の先進的な思想に関心が高かった仙は、それまでにもこの社会構造の裏にはキリスト教信仰があることを感じていたのです。
津田梅子は今からおよそ150年以上前に生きた人物ですが、その没後に、留学中日本にあてた手紙や、帰国後にアメリカのランマン夫妻と交わした数百通の手紙が発見されています。
当時の日本人の手紙では、自身の信条や内面、細かい日常のことについて書き送る習慣はありませんでしたが、アメリカで生活していた梅子の手紙は非常に生き生きと、日常的なことから心の内面まで書き記したものでした。そういう意味で、150年経った私たちもその人生をつぶさにとたどることができる貴重な人物です。
梅子は帰国後も、手紙の中で折に触れてクリスチャンとしての信仰について熱く語っています。
それは日本人として、またアメリカで育った人間として激しく揺れる自己のアイデンティティの中で、キリスト教信仰がゆるぎない重要な柱であったからではないでしょうか。
帰国後の梅子は、主に教育を受けたアメリカの文化と、生を受けた母国日本の文化があまりにも違うことに大きなカルチャーショックを覚え、時には日本のやり方が我慢できないと感じたり、かと思うと日本にいるアメリカ人たちに対して逆に反感を覚えたりと、気持ちが大きく揺れ動いていました。
アメリカを出て日本に着く直前、育て親のアデリン・ランマンに向けて、梅子はこのように書き送っています。
…どうしたら日本の女性のために役に立つか、どこからはじめたらよいのか、全く道は暗くておぼつかないのです。どうか私のために、この困難な道を、私が迷わずに行けるように、神が導いていて下さるように、お祈りしてください。
(原文は英語 訳:大庭みな子『津田梅子』より引用)
また日本とアメリカの文化の違いや、居心地の悪い違和感を感じた場面では、このように手紙にしたためました。
…私たちはとても難しい立場にあり、自分の思うことを口に出して言ったり行動したりできるミッショナリー(※)の人たちのようなわけにはいかない、という結論になりました。日本で力を持っている人たち、元勲と言われる人たちは、クリスチャンでもないし、とても不道徳なのです。私たちは大海の中の一滴の水に過ぎないのです。
(原文は英語 訳:大庭みな子『津田梅子』より引用)※宣教師のこと
伊藤博文公の家で家庭教師をしていた時には、伊藤博文と熱く論議を交わすこともあったようです。
…クリスチャニティーについても、初めて質問を受け、二時間近くもその話をしました。彼はキリスト教が、その道徳や教義が他の宗教よりも優れているとして好意を持ち、日本にとっても悪くはないとは思っていますが、決して信仰しているわけではありません。ただキリスト教のことは少ししか知らないし、もっといろいろ知りたいと言いました。
嬉しいことだとお思いになりません?素晴らしい可能性があります。何を言い、何をしたらよいのでしょうか。私はそのときもっといろいろ話をしたかったのですけれど、言いつくせませんでした。私はあまりに無知で、私の信仰の理由も説明できず、議論も説得もできませんでした。私はただ、神を信じています。もし、彼の質問に正しく答えられたらどんなに良かったでしょうに。キリスト教がこの国に根を下ろしたらどんなに素晴らしいでしょう。…私は聖書の言葉を思い出し、何か機会があったとき、毎日のことが失うものではなくて、未来に育つ何かの種子であることを祈っています。
(原文は英語 訳:大庭みな子『津田梅子』より引用)
これらの発言からは、梅子の熱い信仰が垣間見えます。しかし同時に、梅子は狂信的な信仰者というわけではなく、日本に滞在する宣教師たちには冷静で厳しい目も向けていました。梅子は「自分に与えられた、日本の女性のための使命を果たさなければならない」という非常に強い使命感を終生抱いていて、自分にも厳しい人でした。ですから、自分と同じようにアメリカから渡ってきた同じ信仰に立つ人々には、どうしても厳しい目を向けずにはおれなかったのかもしれません。そして情熱的であると同時に、非常に冷静な一面を持っていた人物でもありました。
今でこそ、基本的人権や人類の平等は当然の理念として受け入れられていますが、開国間もなく、厳しい身分制度が色濃く残る明治時代、そのような思想は日本人にとっては先進的なものでした。道徳理念的にも、強者が欲しいままにふるまって弱者から搾取するのは当然の事とされていました。
梅子や仙から見て、西洋の先進的な思想の裏にキリスト教があることは明らかでした。キリスト教信仰は人命を神の前に等しく尊いものとし、神の前にへりくだって、互いに愛し合い、助け合うようにと勧めています。またこの世界での命には限りがありますが、神を仰ぐときに死んでもなお天国に行くことができると教えているのです。
梅子や仙はこの愛と希望に満ちた教えに感銘を受け、深く共感して受け入れたのではないでしょうか。
梅子は士族の出身者であり、その周りも華々しい社交界の人々でしたが、鹿鳴館の舞踏会や表面的な西洋かぶれに興じる人々を、どこか冷めたまなざしで見定めていました。そして地位の低い人々や、特に不当なまでに虐げられていた当時の女性たちに心を向けていました。
そうして梅子はその生涯を女子教育と女性の地位向上のために捧げました。1905年には、梅子を会長として日本基督教女子青年会(日本YWCA)も創立され、その中で講演を行うなど精力的に活動しました。
後年は病に倒れ、入退院を繰り返しましたが、その時の手記にはこのようにあります。
自分自身のことをいつまでも思い煩うまい。事物の永遠の成立ちのなかで、わたしやわたしの仕事などごく些少なものに過ぎないことを学ばねばならない……新しい苗木が芽生えるためには、ひと粒の種子が砕け散らねばならないのだ。わたしと塾についてもそう言えるのではなかろうか。その思いが念頭を去らない。
(1917(大正6)年6月13日付の日記より。原文は英語 川本静子および古川安による訳)
これは以下の聖書の言葉を意識して書かれた言葉でしょう。
よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
ヨハネによる福音書 12:24
その他にも数々の手紙の中で、梅子は自分の人生における使命を強く意識するような言葉が綴られています。
激動の時代に、日本初の女子留学生という数奇な人生を歩んだ梅子は、「この特別な人生には何か意味がある」ということをよく自覚し、誠実にその任務を果たそうとしていたのです。
そして留学や教育の経験、与えられた環境から「自分にしかできないこと」があり、それが何であるかを理解していたのではないでしょうか。
それはけっして平穏で楽しみばかりの人生ではなかったことでしょう。ひたすら勉学に努め、生みの親や育ての親との離別も経験し、アイデンティティのゆらぎや孤独を感じることもあったはずです。しかしそのような中でも、与えられた境遇を感謝し、周囲の人々との愛を育み、またさらに見知らぬ人々への愛に突き動かされてまい進し、その使命のためにいのちを燃やし尽くしたのです。
私たち一人ひとりにも、神様が与えてくださったご計画と使命があります。さまざまな困難に立ちすくむときに、天を見上げてその意味を問い、そして神様の視点で感謝してそれを受け入れ、大胆に応答して生きる者でありたいと思わされます。
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
ローマ人への手紙8:28
しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。
ピリピ人への手紙3:20
参考文献:
「津田梅子」大庭みな子著(朝日新聞社)
「津田梅子-日本の女性に教育で夢と自信を」山口理著(あかね書房)
Wikipedia「津田梅子」
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