こんにちは、ノイです。
今回のテーマは「キリスト教」です。
こんにち、国や地域を越えて、約23億の人がキリスト教を信じていると言われています。これは世界人口の3分の1にあたります。
キリスト教はどうしてこれほど多くの人々に受け入れられ、個人から社会、国家規模に至るまで影響を与え続けてきたのでしょうか?
ひと口にキリスト教と言っても、法律、社会制度、歴史、世界情勢、文化、芸術、学問など、関わりのある分野は実に多岐にわたりますが、ここでは、個々の人々の心を掴んだキリスト教のコアとなる部分に焦点を当て、その答えを探っていきたいと思います。
目次
日本海を見て育つ。 幼い頃、近所の教会のクリスマス会に参加し、キャロルソングが大好きになる。 教会に通うこと彼此20年(でも聖書はいつも新しい)。 好きなことは味覚の旅とイギリスの推理小説を読むこと。
キリスト教の聖典である聖書は、旧約聖書と新約聖書の二つの大きな括りから成り立っており、その分岐点はイエス・キリストの誕生です。
「西暦」の年数もイエスが生まれた年を「紀元(1年)」とし、それより前を紀元前(B.C.(Before Christの略))、イエスが生まれた年より後を紀元(A.D.(Anno Domini※の略))として数えますね。
※ラテン語で「私たちの主の年」という意味です。
キリスト教は、聖書や歴史の中軸となっているイエス・キリストを神として信じる教えですので、まずはイエスその人から知ることをお勧めします。
「イエスってどんな人物なんだろう?」と思われたら聖書を読んでみてください。イエスが「自分を証しするものは聖書だ」と言われたからです。
聖書を手に取られたら、実際にイエスが話したことや行われたことが書かれている、新約聖書の「福音書」から読まれるのがよいと思います。イエスと一緒に日々を過ごした弟子たちによって書かれた福音書は、聖書の中でも読みやすい書物です。
あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
ヨハネによる福音書5章39節
●こちらの記事もどうぞ
キリスト教は唯一神です。
聖書は約1,500年に亘り、およそ40人の著者によって書かれた66巻の書物の集合体ですが、どの書においても神は最初から最後までただ一人です。
しかし、一つの神のうちに、父なる神、御子キリスト、聖霊という独立した三つの位格(人格)が存在しています。
このことを「三位一体」(さんみいったい)と言います。
三つの位格がありながらも一つであるため、「神々」という呼び方はしません。「最高神」というものもありません。神は一人だからです。
実際に見ることのできない「三位一体」を理解することは難しいのですが、クリスチャンにとって神とは、父なる神であり、御子なるキリストであり、聖霊なのです。
聖書は、神が万物の創造主であるという言葉から始まります。
はじめに神は天と地とを創造された。
創世記1章1節
神は光、天、海と大地、植物、天体、生き物、人間を6日かけて創造し、すべての業を休んで祝福した7日目を聖なる日として定めます。
すべてが偶然の産物ではなく、神の意志と計画、目的によって生じたのです。
すべて存在しているものの理由と目的は、神(クリエイター)にあります。
神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。
創世記1章31節
キリスト教は、旧約聖書の時代から一貫して、太陽や月、火や水、動物など自然界に存在するあらゆるものを崇拝の対象にすることを禁じています。
芸術品を鑑賞して作り手の個性や内面を感じ取るように、被造物は、それらを造られた神の力と品性を表すものです。
頸髄を損傷し手足の自由を失った星野富弘さんが、口に筆をくわえて花の絵を描くようになったきっかけは、ベッドの横にいけてあった花を見ながら、次の聖書の言葉を思い出していたときのことだそうです。
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。
マタイによる福音書6章28~30節
小さな一輪の花に神の創造の力と計らいの愛を見たとき、生きる希望が生まれ、人の心を打つ詩画を生み出す新たな人生の歩みが始まったのです。
神は目には見えない創造主ですが、被造物を通してご自分を示しておられ、喜びと感動を与えられます。
もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。
詩篇19篇1節
神は愛である。
ヨハネの第一の手紙4章8節
神は愛そのもの、ということです。
この愛は、友情の愛、恋人・夫婦間の愛とは異なります。
親が子に抱く愛が最も近いと言われますが、神の愛には条件がなく、誰に対しても常に変わることがありません。
キリスト教は、個々人が神(愛)と出会うための教えです。
始めから神を知っている人は誰もいません。
例えば、ある人について、実際に長い時間を一緒に過ごして「知っている」と言うのと、人から聞いた話だけで「知っている」と言うのとでは違うように、愛は知識として理解するだけのものではありません。
聖書の言葉によって神がどのような方か分かっていくうちに、これまで知らなかった愛を自分のこととして知るようになるのです。
神と出会うまでの経緯や歩みは本当に人それぞれですが、神は私たち一人ひとりが神の愛に出会い、安心して生きることを望んでおられます。
愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。
ヨハネの第一の手紙4章18節
「人はなぜ生まれて、何のために生きて死ぬんだろう?」
意識するしないに関わらず、誰もが持っているこの疑問に対する何らかの答えが、その人の人生の土台になります。
ここからは、この疑問に対するキリスト教の答えを見ていきたいと思います。
旧約聖書の「創世記」には、人が神の姿に似せて、神によって土のちりから造られたことが書かれています。
主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。
そこで人は生きた者となった。
創世記2章7節
神は人をご自分と同じように人格を持ったものとして造り、関係を築き、愛し合う存在として造られました。これが、人の創造の目的です。
人は誰でも愛なしで生きることはできません。愛がなければ空気がないのと同じように息苦しく、人生に虚しさや憤りを抱えるようになります。
神(愛)の形で、愛によって生きるものとして造られているため、愛から離れては生きていけないのです。
そして、私たちを完全に受け入れ満たすことのできる愛は神にしかありません。
神は造られた世界と人を祝福されました。
しかし、残念ながら、人類の祖であるアダムは罪を犯してしまい、人は神から遠く離れて歩むようになります。
これは、神と共に愛の中で生きるはずであった本来の在り方から大きく転落した形でした。
「創世記」の3章には、アダムは悪魔に唆(そそのか)された妻のエバと一緒に罪を犯し、堕落したことが書かれています。
神から「園のどの木からも思いのまま食べてもよいが、善悪の知識の木からは食べてはいけない。食べると必ず死ぬ。」と言われていた木の実を取って食べてしまったのです。
アダムは主である神の命令に背きました。それまで存在しなかった罪が、人の中に入った瞬間です。この罪の結果は、死でした。
このようなわけで、ひとりの人(※)によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。
ローマ人への手紙5章12節
※アダムを指します。
聖書における「死」は、二つの意味を持っています。
一つは、肉体的な死です。本来、人は永遠に生きるものとして創造されましたが、罪の報いとして死ぬことになりました。ちりから造られた人の肉体は、ちりに帰ります。
もう一つは、神との関係における死、神との関係の断絶です。
神は愛のお方であると同時に、完全な正しさ、公平さ、聖さを持つお方です。
罪と聖さは相反するものであり、罪があれば、神と共にいられません。
私たちはアダムの罪を受け継いで生まれてくるために、生まれた時から神との間に罪の隔たりがあり、神がわからなくなってしまっているのです。
罪の支払う報酬は死である。
ローマ人への手紙6章23節
創造主を失うことは、自らの存在意義をも失うことを意味しています。
われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。
イザヤ書53章6節
神は人を「非常に良いもの」として造られたので、罪を犯す前のアダムとエバは自分自身に対する羞恥心や劣等感、罪悪感も持っていませんでした。
しかし、罪を犯した後、アダムとエバの内面に大きな変化が生じます。それは、自分の姿を恥じて、自らを隠し、神を避けることでした。
自分を包んでくれていた完全な愛から遠ざかると、待っていたのは不安と恐れ、そして、愛で一つとなっていた夫婦の間に生じた亀裂でした。
また、大地が呪われ、人は食べていくために苦労しなければならなくなります。
キリスト教文学の代表作であるジョン・ミルトンの『失楽園』は「創世記」を題材にした物語で、罪が入る前の自然界の美しさや平和と調和、アダムとエバの一点の曇りもない心身の健やかさ、夫婦の仲睦まじい姿が仔細に描かれています。
そこでは、神から任された大地を夫婦が協力して手入れし管理しています。
労働は苦しみではなく、喜びとやりがいを共有する作業であり、アダムとエバはお互いを尊重し合いながら、創造の喜びを分かち合うのです。
物語は作者の想像ですが、罪によって損なわれる前の世界や人の在り方は、私たちが当たり前と思っている現状と全く違ったものであったに違いありません。
罪は、神との関係、自分自身に対する意識、他者との関係、自然との調和、健康、労働の意味等々、すべての面において破壊的な結果をもたらしました。
そして、罪の影響は現在の問題のみならず、死んだ後の問題にまで及びます。
聖書には、人は死んだ後、誰もが裁きを受けると書かれています。
この地上で生きる人生は一度きりですが、その後、神のおられる天国か、悪魔が閉じ込められるために造られた地獄のどちらかで永遠に生きることになります。
そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように
ヘブル人への手紙9章27節
死は神との関係の断絶を意味している、とお話しましたが、それは、永遠に神と共に生きる命を失った、ということであり、死後も神のもとに帰ることができないのです。
しかし、神は堕落して離れていった人類との関係回復を諦(あきら)めませんでした。
旧約聖書には、世界の成り立ちからイスラエル民族の起こり、国の興亡など歴史的事柄を含め、実に様々なことが書かれていますが、全体を貫くメッセージは「救い主の到来の約束」です。
これは、アダムが罪を犯した直後から神が約束されたことです。
主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這(は)いあるき、一生、ちりを食べるであろう。
わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
創世記3章14~15節
へび、とはエバを欺(あざむ)いた悪魔のことです。
神はへびを呪われた際、人と悪魔が敵対し、最終的に「女のすえ(子孫)」が悪魔の頭を砕く、と言われました。
この悪魔の頭を砕く「女のすえ」は、「人類の救世主」を意味しています。
いつの日か救い主が来て悪魔を倒す、と神は言われたのです。
救い主に関する約束と預言は、他にも旧約聖書に300以上書き記されています。
イエス・キリストはユダヤのベツレヘムで生まれた後、ナザレという町で大工の子として育ちました。30歳の頃から各地の会堂で聖書の言葉を教え、12人の弟子と共に福音(神の救いについて)を宣べ伝え始めます。
宣教を開始したイエスは、旧約聖書の「イザヤ書」に書かれた救い主到来に関する預言の箇所を朗読し、「今日、この言葉が成就した」と宣言しました。
そして、その生涯において旧約聖書に書かれた他の預言もすべて成就したのです。このような人物は、歴史上イエス以外にいないでしょう。
イエスは創造主なる神を「父」と呼び、「苦しみにある人々を解放するために、神から遣わされた救い主が私だ」と言われました。
盲人の目を開き、あらゆる病を癒し、人にとりついた悪霊を追い出し、5千人以上の人々にパンを与え、死人を生き返らせます。言葉だけではなく、それに伴う力ある奇跡によって、人々はイエスを神の子、救い主として信じたのです。
イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
マタイによる福音書9章35節
当時、ユダヤの人々は国を失い、ローマ帝国の支配下で苦しみに喘いでいました。国が再建されることを待ち望んでいた民は、奇跡を行い、神の国の教えを説くイエスを、旧約聖書に約束された救世主として期待するようになります。
一方で、厳格なユダヤ教の指導者たちは、突如として現れたイエスの影響力に警戒心を抱き、次第に敵対していきます。
イエスの教えは神としての権威に満ち、愛と悔い改めを説くものであり、それまで指導者たちが熱心に行い、民衆に説いてきた戒律の順守といった教えとは異質なものでした。
イエスに対する人々の様々な思いが渦巻く中で、イエスは弟子たちにある質問をします。
そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。マタイによる福音書16章15節
イエスの問いかけに対し、最も身近にいた弟子のペテロは「あなたは生ける神の子キリストです。」と答えました。
このイエスの言葉は、今日も私たち一人ひとりに同じように問いかけています。
ちなみに、現在のイスラエルでも多くの人はイエスを救い主として認めず、旧約聖書の約束の成就を待つユダヤ教徒です。
ただ、イエスを救い主として信じている人々も人口の約2%ほどいると言われていて、そのような人々は「メシアニック・ジュー」と呼ばれています。
旧約聖書に約束された救い主は、一体何から救ってくれるのでしょうか?
当時のユダヤ人は、自分たちを取り巻く現状からの救いを期待しました。
しかし、神の約束された救いは、アダムの堕落以来続いてきた、人間の苦しみの根源を解決することだったのです。
それはつまり、人を支配する「罪」とその結果である「死」からの救いでした。
罪には贖(あがな)いのいけにえが必要です。
その代償を払いきってしまうまで人は死から解放されることはないのです。
もしイエスに罪があれば、他の誰かの身代わりにはなれません。
しかし、イエスは罪なき神の子であり、肉体を持った人間でもありました。
神との隔たりをなくし、関係を死から命あるものに回復させ、死んだ後も新しい命を与えられ神の国へ入ることができるよう、イエスはすべての人の罪を贖うために来られたのです。その贖いの方法が、十字架(で自らがいけにえとなるということ)だったのです。
イエスはご自分によって父である神のもとに行くことができる、と約束されました。
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。
だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」
ヨハネによる福音書14章6節
どれだけ多くの民衆に支持されたとしても、イエスの目的は王として振る舞うことではありませんでした。
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。
それは、人の子※がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。
マタイによる福音書25~28節
※イエスを指します。
恵みと真実さ、愛に満ちたイエスの歩む道は、すべての人の身代わりとして罪を背負う十字架へと続く苦しいものでしたが、イエスは耐え忍ばれました。
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして※僕(しもべ)のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。
ピリピ人への手紙2章6~9節
※むなしくして、「低いものとして」の意
ピリピ人の手紙に書かれた言葉のように、歴史上、イエスほど影響を与えた人物は他にいないと言っても過言ではありません。
しかし、イエスの生涯そのものは驚くほどにへりくだった神の姿を現すものでした。
このイエスの姿は、旧約聖書の『イザヤ書』で次のように預言されています。
彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
イザヤ書53章2~6節
敵対していた宗教指導者たちによってイエスは十字架に架けられましたが、それは神の救いの計画の成就でした。
しかし、もし、イエスが死んだままであったならキリスト教は存在せず、今日の世界の在り方も歴史も全く違ったものになっていたでしょう。
イエスは十字架で死ぬ前に、弟子たちに言い残したことがありました。
彼らがガリラヤで集まっていた時、イエスは言われた、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、そして三日目によみがえるであろう」。
マタイによる福音書17章22~23節
この言葉通りに、イエスは三日目に死からよみがえりました。
イエスの死と復活を見、神の力を目の当たりにした人々が、これほどの大事件を黙っていられるはずがありません。
人々はイエスの復活の証人として、エルサレムから世界中へと出て行ったのです。そして、迫害の歴史の中でも、イエスの名が地上から消えることはありませんでした。
キリスト教の要(かなめ)であるイエスによって旧約聖書の約束は成就し、神と人との間には新たな約束が生まれました。それは、イエスを信じるなら、罪が赦され、神と共に永遠に生きることができるという約束です。
「あなたはわたしを誰だと思いますか?」とイエスは一人ひとりに問いかけています。
聖書によって、イエスを知ってみてください。
イエスは本当に愛の神です。
●こちらの記事もおすすめ
クリップアートを使わせていただきました
・christiancliparts.net/(キリスト教クリップアートのサイト)
・https://kohitsuji-illust.com/(こひつじイラスト)
・https://www.ac-illust.com/main/profile.php?id=23658777(イラストAC・絵礼さん)
Copyright © 新生宣教団 All rights reserved.