Taroです。今日はキリスト教の洗礼についてお話ししましょう。洗礼(せんれい)、バプテスマとも言います。
「◯◯の洗礼を受けた」ということばはよく耳にしますね。新人がその世界を知る「痛い」経験をした場面などで使われています。ややネガティブな使われ方が気になりますが、おそらくその世界で生きていく上での通過儀礼的なニュアンスが込められているのでしょう。そのような「洗礼を受けた」人は世の中にゴマンといることになるでしょうね。
では、本当の洗礼とは一体どのようなものなのか。ここでは本家本元であるキリスト教会の洗礼についてご紹介したいと思います。やはり受けるならこちらの洗礼を受けることをお勧めします。
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プロテスタント教会の信徒で新生宣教団の職員。前職から印刷に関わり活版印刷の最後の時代を知る。 趣味は読書(歴史や民俗学関係中心)。明治・江戸の世界が垣間見える寄席好き。カレー愛好者でインド・ネパールから松屋のカレーまでその守備範囲は広い。
それではまず、洗礼を受けるとは一体どういうことなのでしょうか。その意味について2、3見てみましょう。
洗礼とはキリスト教入信の儀式と一般的には言われています。それは間違いではないのですが、洗礼を受けることがクリスチャンになるため(救いの)の条件ではありません。実はあべこべなのです。クリスチャンになるために必要なことは、イエス・キリストを個人的な救い主として心に受け入れることだけで、その信仰の表明が洗礼と言えます。
洗礼とは、そのイエス・キリストと一体となることを象徴する儀式と言われています。洗礼は教派によって違いはあるものの、基本的には身体を水の中に浸す儀式です。これはキリストと共に古い自分が死に、キリストと共に復活して新しい命を生きることを表しています。
イエス・キリストを個人的な救い主として受け入れ、その信仰の表明が洗礼だと述べましたが、それは結婚式にも例えられています。キリストの花嫁となったことを皆さんの前で披露して、列席者に証人となってもらうというところなどよく似ていますね。
次に、洗礼の仕方について簡単にご紹介しましょう。教会で洗礼はどのように行われているのでしょうか。
多くの教会で行われている洗礼方法だと思います。前述した「キリストと共に死に、甦る」ことを表しているだけでなく、「キリストに浸かって染まる」という意味もあって、全身を水の中に浸す方法です。洗礼(バプテスマ)の語源はギリシア語の「浸す」からきていますので、この方法はその意味をよく表しています。
潅水礼というのは、水を頭に注ぐというやり方です。
滴礼というのは、水に浸した手を頭に置く、あるいは水を頭に振りかける方法で、これらを用いる教会も多数あります。また、浸礼を用いる教会でも、身体的な理由などで浸礼が行えない人のためにこれらの方法を用いる場合もあります。
洗礼式は、教会の大切な礼典の一つです。
大まかな流れは、信仰の確認を司式者が受洗希望者に問いかけ、受洗希望者が応答。祈りの後、洗礼場所にて「父と子と聖霊の名において汝に洗礼を授ける」との宣言によって、全身を浸す というのが基本的な流れだと思います。これは新約聖書マタイ福音書28章19節に由来していて、教派により多少違いはあると思います。
それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、(マタイによる福音書 28章19節)
教会により色々だと思います。多くの教会は、礼拝堂の講壇の下か後ろに洗礼槽を設置していることが多いのではないでしょうか。かつて私が洗礼を受けた時は、教会が小さく洗礼槽を持たなかったため、近くの教会のご好意でその教会へ行き、その教会の数名と一緒に受けさせていただきました。その後しばらくして組み立て式の洗礼槽を購入して使うようになりました。
その他、浴槽を利用する教会や、海や、川、湖が近くにある教会ではそのような自然の中で洗礼を行うところもあるようです。
洗礼を受けたいと考え始めたら、洗礼を受けるまでには何が必要になるのでしょうか。
洗礼を受けるための条件はあるのでしょうか。何かの資格のようなものは必要なのでしょうか。
そのようなものは不要です。聖書を何回読んだとか、特別な体験をしたかとか、お祈りが上手になったかなども関係ありません。必要なことは、イエス・キリストを個人的に罪からの救い主として受け入れ、キリストに従い、共に生きて行きたいという告白と願いのみです。
ときに「いくらかましになったら受けよう」と考える人もあるようですが、その考えですと永遠に受けることは出来ないでしょう。
洗礼を受けるための対価も不要でして、教会や司式者への謝礼も要求されません。
条件や、資格などの必要はないとは言え、何の準備もなくいきなり洗礼を受けるわけではありません。
教会では、洗礼希望の人に洗礼準備講座などを設けていて、学びを通して納得して洗礼を受けることが出来るように配慮がなされています。そして、再度の意思確認の上で進むことが出来ます。逆に来たばかりの人に、信仰告白を強く勧めたり、意味がよく分からないのに洗礼を勧められたりするような教会には行かない方が良いでしょう。
多くの方は、洗礼を受ける方法よりも、その後の方が気になるのではないでしょうか。具体的な事柄はそれぞれの教会の考え方があると思いますので、洗礼準備講座で確認されたら良いと思いますが、思いつくままに列記してみます。
カトリック教会や聖公会の教会では、洗礼時に洗礼名(聖人や天使、聖書の語句)を守護の願いを込めて授けるようですが、プロテスタントではそのような習慣はありません。ただ、リスペクトする聖書の人物を自ら添えて名乗る方も中にはいらっしゃいます。
洗礼とは、霊験あらたかな秘儀のようなものではないので、その瞬間から人間が改まって聖人のようになるわけではありません。また、気負ってそのように自分を仕向けなければならないことでもありません。それより大切なのは、新婚生活のごとくイエス・キリストとの親しい関係を意識した生活をスタートさせることだと思います。
誰もが経験する信仰のスランプ。洗礼を受ける前より悪くなっていると思えることもしばしば。そんなとき思うことが「洗礼を受けたけれども、自分は本当には分かっていなかった。あれは勢いで受けてしまった。出来ることならもう一度受け直したい」というもの。
洗礼は何度でも受けられるものなのでしょうか。答えはNoです。洗礼は一度きりのものですし、私たちがどのような状況になったとしても「神の子」とされていることに変わりはなく、最初の一回で問題ないのです。
どうやら「洗礼」の文字が誤解を生みやすいようで、これは罪を洗い流す禊(みそぎ)のようなものではないのです。私たちの救いの拠り所は、私たち自身ではなく、あくまでイエス・キリストなのですから、喜んで自分自身(の行い)に確かさを見出すことを放棄しましょう。
洗礼は信仰の表明でもあり、また教会の一員となることを意味します。教会はキリストの体に例えられるので、あなたもキリストの体の大切な部分となるとも言えるのですね。洗礼を受けるまでの間も、牧師さんや先輩クリスチャンとの交流があったことと思います。その関係を益々大切にして励ましあって成長することが求められているのではないでしょうか。信仰の歩みはそこからがスタートと言えます。
洗礼を受けた時、何故かそれほど大きな感情の高ぶりはありませんでした。私の場合は教会に足を踏み入れてからおよそ半年後のことです。それでも静かな喜びというか安らぎのようなものがあって、同時に新しい生活が始まるという厳粛な思いもありました。やはり一歩踏み出すのには勇気が必要でしたが、今思えばためらわず進んで良かったと思っています。一緒に洗礼を受けたご婦人は自分の祖母にも近い年齢の方でしたが、その方が天に召されるまで、同じ誕生日の「兄弟姉妹」として共に祈りあって過ごさせていただいたのが良い思い出になっています。
洗礼について知る限りをご紹介しましたが、いかがでしたか。キリスト教に関心のある方は参考にしてみてください。既に洗礼をお考えの方は一歩踏み出されることをお勧めします。決して「痛い」とか「苦い」経験ではありませんから。
以上、Taroでした。
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