こんにちは、ひよこです!
みなさんは世界で最も有名な人物は誰だと思いますか?
私は間違いなく「イエス・キリスト」だと思います。なぜなら彼を信じ信仰を持っている人たちがこの世界には22億人以上もいて、彼の生涯などが書かれている聖書は世界のベストセラーだからです。
しかし日本ではあまりキリスト教になじみがなく、イエスという人物については歴史の教科書で少し学んだだけという人も多いと思います。
なので今日は、そんなイエスの生涯をたどりながら、彼がどのような人物であったのかをざっくりお話したいと思います!
目次
3歳の時からプロテスタント教会に通う。東京基督教大学で神学とユースミニストリーについて学び、卒業後新生宣教団に勤める。趣味は絵を描くこと、賛美と楽器演奏(ピアノ・バイオリン・ウクレレetc...)。神様と教会が大好きな20代クリスチャン!若さを活かして読みやすい、興味を持ってもらえるような記事を目指しています!
今からおよそ2000年前に実在した「イエス・キリスト」という人物がどのような生涯を送ったのかを見る前に、少しイエスについて説明します!
「イエス・キリスト」と表記されていると、どっちが苗字でどっちが名前なの?と思う人もいるかもしれません。しかし、「イエス」は固有名詞であり、「キリスト」とは称号なのです。
当時のユダヤではイエスという名前はありふれた名前でした。「イエス」はヘブル語名ヨシュアのギリシア語形イエスースで、「主は救い」の意味があります。
当時ユダヤの人はほとんど苗字を持っておらず、「マグダラのマリア」や「大工のヨセフ」などのように職業や親の名前、出身地などを苗字のように使って区別していました。イエスも最初はナザレに住んでいたので「ナザレのイエス」と呼ばれていました。後にイエスはキリストという称号をつけて呼ばれるようになります。
「キリスト」はヘブル語のメシアのギリシア語訳クリストスで、「油注がれた者」の意味です。
旧約聖書の時代、神から任じられた王や祭司、預言者は油を注がれていて、やがて「油注がれた者」は救い主を意味するようになりました。なのでイエス・キリストは「救い主であるイエス」という意味なのです。
聖書には「イエスは神の子である」と書かれています。と言っても私たちが「父と息子」の関係で考えるような意味での「神の子」ではありません。神が結婚して息子を持ったという意味でもありません。
この時代のヘブル文化において「神の子」とは「神と同等」「神と同じ本質を持つもの」「神そのもの」という意味でも使われていたようです。そして待ち望んでいるメシアは「神が人のかたちをとって来られる」と言われていました。
イエスは神のひとり子であり、旧約聖書の預言どおりに人間として地上に来られた神の子なのです。イエスは「完全な人間」であり、同時に「完全な神」の性質をもっているのです。
イエスの生涯は33年という短いものでした。しかし、彼の名前と教えは忘れ去られることなく、現代の私たちにも伝え続けられています。いったいどんな人生だったのか気になりますよね!
イエスの誕生から、十字架で死に復活するまでの軌跡を一緒に見ていきましょう。
イエスの誕生についての預言は旧約聖書にたくさん記されていますが、その中の一つに、アブラハムの子孫、ダビデの子孫からキリスト(救い主)が誕生するということが預言されていました。そしてその預言通りのことが起こります。
イエスの母であるマリアは古代イスラエル王国のダビデ王の血を引いていて、父ヨセフも同じくダビデ家の末裔で、この2人はパレスチナ地方(現在のイスラエル)に住んでおり、婚約関係にありました。ある日、処女マリアは神の使いである天使ガブリエルから、神の子キリストを妊娠したという「受胎告知」を受けます。ヨセフの元にも天使ガブリエルが現れ、神の子に「イエス」と名付けるようにと告げられます。信仰深い2人はこのお告げを受け入れ、神に従うのです。
時を同じくして、当時ユダヤの国を支配していたローマ帝国のアウグストゥスは人口調査をユダヤ全土に命令し、ユダヤの全国民が祖先の生まれた土地へ行き住民登録をすることになりました。
マリアとヨセフは北ユダヤのナザレという町に住んでいましたが、2人の祖先であるダビデ王は南ユダヤのベツレヘムが出身だったため、長い時間をかけてベツレヘムへ行きました。その時すでにマリアは臨月だったので、その旅先でイエスは誕生します。神の子であるイエスは、立派なお城で生まれたのではなく、貧しい家畜小屋で生まれました。旧約聖書のミカ書5章2節にはこのようにあります。
ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。
(ミカ書5:2)
ベツレヘムの地でイエスが誕生することもすべてが神の計画であり、イエスは後にすべての人類の罪を贖(あがな)って救うために、人となってこの地上に来られたのです。
当時ユダヤ王国を統治していたヘロデ王(ヘロデ大王)は、このイエス誕生のニュースを東方の天文学者を通して耳にしますが、新たな「王」として生まれてきたイエスに脅威を感じたヘロデ王は、イエスの殺害を謀ります。しかし、マリアとヨセフは主の使いにエジプトへ逃げるように知らされたので、ヘロデ王が死ぬまでその地にいました。
ヘロデ王が死ぬと、主の使いがイスラエルに帰るように知らせたので、マリアとヨセフはイエスを連れてイスラエルに向かい、ナザレという町に住み始めました。
イエスの誕生については福音書で細かく書かれているのに対し、イエスの幼少期、少年期、また青年期についてはルカの福音書2:41-52以外には書かれていません。しかし、この短い箇所からイエスの子どもの頃について知ることができます。
マリアとヨセフは敬虔なユダヤ教徒だったので、律法に従って毎年過ぎ越しの祭りのためにエルサレムに行っていました。ユダヤ人の男の子は13歳でバル・ミツバという成人式を迎えます。この儀式を迎えるために、12歳の時に過ぎ越しの祭りと七週の祭り、仮庵の祭りをエルサレムで守ることでその備えをします。そのため、マリアとヨセフは12歳になったイエスを連れて毎年行われるこの過ぎ越しの祭りに行きます。
過ぎ越しの祭りでは、巡礼者たちはエルサレムに行き、そこで最低2泊することが義務付けられています。彼らはその通りエルサレムを巡礼し義務を果たした後、ナザレに帰っていきました。大勢のユダヤ人が帰路に着く中、当然イエスも一緒にいると思っていたマリアとヨセフは1日後にイエスがいないことに気がつきます。イエスを探しながら引き返した2人は、再びエルサレムまで戻ることになりました。そこでようやくイエスを見つけますが、それは驚くべき光景でイエスはエルサレムの神殿でラビ(ユダヤ教の聖職者)と語り合っていたのです。ラビたちもまた、イエスの知恵と知識に驚いていました。
マリアとヨセフは心配していたことをイエスに伝えますが、イエスは「どうしてわたしを探されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」(ルカ2:49)と言います。この語られたことばの意味が2人には理解できなかったのですが、これはイエス自身が自分は神の働きのために存在していると知っていた事を示しています。
イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。
(ルカ2:52)
とあるように、少年イエスは家庭では両親から、会堂ではラビたちから旧約聖書のことや律法について学びながら成長していきました。
イエスが公の場に出て活動した時期を公生涯と言いますが、公生涯が始まったのは30歳の頃でした。当時洗礼者ヨハネと呼ばれる人物が、「神の国」が近づいたことを伝え、人々に罪の悔い改めを説き、ヨルダン川で洗礼を授けていました。あらゆる地域から人々がヨハネの元にやって来て洗礼を受けました。
人々はキリスト(救い主)を強く待ち望んでいたので、次第にヨハネこそが待ち望んでいた救い主なのではないかと思うようになります。しかし、それに対してヨハネは、「私よりも力のある方が来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。」(ルカ3:16)と言いました。
そんなある日ついにその方、つまりイエスが洗礼を受けにヨハネのところへ来ました。しかし、そもそも洗礼というのは、自分の罪を悔い改めて神に立ち返るという意味を持っています。神の子どもとして罪のない状態でこの世に来られた方が受けるべきものではないと、最初は恐縮していたヨハネも、イエスの「今はそうさせてもらいたい。」という言葉を聞き、ヨルダン川でイエスに洗礼を授けました。
これは、イエスが、後に人々の罪の刑罰を代わりに引き受けるためには、裁かれる側である「人」としての身分を明確に示す必要があったためと思われます。また、このイエスの言葉は、洗礼は神に従う人生の初めにふさわしい行為だと私たちに手本を示しているとも言えます。
このようにして、30歳のイエスはナザレの町を出て宣教への備えをしていきました。
いよいよイエスはユダヤ各地で、神のことを伝えるために宣教の働きを始めます。
イエスはまず使徒と呼ばれる12人の弟子を選んで、寝食をともにしながら彼らを教えて育てました。弟子たちは特別な人間ではなくむしろ臆病なところもありましたが、後に変えられてイエスの働きの継承者となり、大事な役割を担っていくことになりました。そんな彼らが書き残した手紙の一部が「新約聖書」の各書となり、イエスの働きがどのようなものだったのか、またどれほどの影響力があったのかを伝えてくれています。
イエスは優れた教師でした。その中でも「山上の垂訓(説教)」とよばれる説教は最も有名で多くの大切なことを伝えています。「自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい」「右の頬を打つものには左の頬も向けなさい」など私たちも一度は聞いたことのあることばや、「主の祈り」とよばれる祈りについての教えなど、当時の人たちも今まで聞いたことのないような教えに次第に心動かされるようになります。
それまでユダヤ教の律法を守ることを大切としてきた人々が、「~しなければならない」という律法的な教えではなく、神を信じてその恵みを受け取ることができるという恵みの宣言を知ったのです。だからこそイエスは、自分を誇れずにただ神にすがる以外できなかった取税人や病人、遊女らと積極的に関わり、神と隣人を愛することの大切さを教えました。
さらにイエスは、人々の病気を癒したり、死人を蘇(よみがえ)らせたり、5つのパンと2匹の魚を5千人の群衆に分け与えるというような奇跡もたくさん行いました。それはイエスが自分のちからを誇示したり、奇跡を売りにしていたのではなく、イエスこそが人々が長い間待ち望んでいたメシアであることを明らかにするためでした。
だんだんとイエスの名前が知られるようになってくると、地方からもイエスの教えを聞こうとする人たちが集まってくるようになりました。しかしそのことをよく思わない人たちが現れ始めます。それは律法を頑固に守り続けてきたユダヤ教の祭司や、パリサイ派とよばれる当時人々の間で尊敬され影響力も持っていた学者たちです。イエスに対して警戒心を強めるようになり、律法を破る者として訴えようとしはじめます。
それでもイエスは妥協せず、反発されても権威をもって真理を語り続けました。このようにイエスは多くの人に神の国について説き、約3年半の公生涯をすごしました。
イエスは後に十字架刑によって処刑されますが、その最後の1週間をエルサレムで過ごします。
イエスと弟子たちはエルサレムに向かい、イエスはろばにまたがってエルサレム神殿に入城しました。その様子はイエスが生まれる約500年前、旧約聖書の時代にゼカリヤによって預言されていました。
このようにイエスは、預言されていた通りに神の子でありながら人の子として誕生し、生涯を送り、また後に十字架で処刑されることも知りながら最後の1週間を過ごすためにエルサレムに来たのです。この1週間のことを受難週と言います。
イエスがエルサレムに来ると、過ぎ越しの祭りのために集まっていた群衆たちは、歓声をあげて賛美の歌をもってイエスを平和の王として迎えました。そのためイエスと対立してきたパリサイ派の人たちやユダヤ教の指導者たちは、自分を神の子とするイエスを殺すことで一致し、動き始めます。
別の場面でイエスは、弟子たちと過ぎ越しの祭りを祝うための準備をされていました。これがあの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの作品の一つ『最後の晩餐』の場面です。
イエスは12弟子とともに夕食をとり、パンを「自分の体」、またぶどう酒を「自分の血」として、自分の十字架の贖いを忘れないようにと教え、弟子たちに与えました。これが現代の教会でも行われる聖餐式の始まりです。
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イエスはこの翌日に十字架にかけられることになりますが、当然そのことを知っていました。そしてこの12人の弟子の中に自分を裏切る人がいるということを話します。
そしてその通りになり、弟子の1人であったイスカリオテのユダが、ユダヤ教の祭司のもとを訪ね銀貨30枚でイエスを引き渡す約束をしてしまいます。そしてその夜、裏切り者のユダは武器を持った兵士たちを連れてイエスのもとへ行き、縄をかけてイエスを捕らえます。その時弟子たちはみな怖くなって逃げてしまいました。
こうしてイエスは大祭司カヤパの官邸に連行されます。カヤパを議長とするユダヤ人の宗教議会は、「イエスは神を冒とくする者だ」として死刑という判決をくだしますが、当時ローマの支配下にあった彼らにはイエスを処刑する権限はなかったので、イエスをローマ帝国の総督ポンティオ・ピラトのところへ連れて行き、「大勢の人々をまどわし反逆を企てる政治犯」としてイエスを訴えました。
罪状を聞いたピラトは最初、イエスがローマの法律に触れるようなことは何もしていないのを知っていたので釈放しようとしました。しかし彼らは引き下がらず、イエスを殺すように強く願いました。民衆の暴動や、これ以上騒ぎが大きくなることを恐れたピラトはイエスの処刑を最終的に認めてしまいます。
当時十字架刑は、ローマ帝国でも反逆者のみが受ける最も重い刑罰でした。一つも罪を犯していないイエスはそんな十字架刑で処刑されることになったのです。
イエスは鞭うたれ、100kg近くもあると言われている重い十字架を背負い、ピラトの官邸からゴルゴダの丘の刑場まで1.6kmの距離を歩くように強いられました。ただし十字架は途中でクレネ人シモンという人に負わせて運ばせたとあります。
刑場に着くとイエスは十字架に手足を釘で打たれ、「ユダヤの王、ナザレのイエス」というピラトの書いた罪状とともに桀(はりつけ)られました。
イエスは苦しめられ殺されることを知っていましたが、生まれてからこの時を迎えるまでまっすぐにその道を歩みました。それは、これこそが神の子イエスがこの世に来た最も大きな目的だったからです。 イエスが人間のすべての罪を背負って十字架で死ぬことによって、神が救いの道を用意してくださったからです。そしてイエスは十字架の上でその生涯を閉じ、イエスの死体は墓に葬られました。
イエスは十字架で死にましたが、しかしそれで終わりではなかったのです!
イエスが処刑されて3日目に、イエスに仕えていた女性たちがイエスの遺体に香料を塗るために墓にやってきます。ところがお墓の入り口を塞いでいた大きな岩が退(ど)かされており、墓の中を見てみるとイエスの遺体は消えていたのです。何者かに遺体が盗まれてしまったと悲しむ女性たちの前に天使が現れて、イエスが復活したことを告げました。そして女性たちはこのことのすべてを弟子たちに伝えます。イエスも弟子たちの前に現れて、自分が死に打ち勝ち復活したことを証明されました。
最初は恐れてイエスの復活をなかなか信じることができなかった弟子も、槍でつかれたイエスの脇腹の傷跡や、十字架で釘打たれた手の傷を見て信じました。それまで臆病であった弟子たちが死をも恐れない立派な宣教者となることができたのは、このイエスの復活を目の当たりにし、さらには約束の神の霊を注がれたからでした。
イエスは復活してから40日にわたって弟子たちとともに過ごし、神の国についての話をされました。
そして40日目に弟子たちの目の前でオリーブ山の山頂から天にのぼっていかれ、神の右の座に着かれたと聖書に書いてあります。
その後、イエスの生涯と、イエスがこの世に来られた本当の意味が弟子たちによって世界中へと広まっていきました。これが今のキリスト教になり、現在22億人もの人たちがイエス・キリストを救い主として礼拝しています。
今日この記事を通して、イエス・キリストがどのような人物であったのかを知ることができたと思います。
そもそもなぜイエスは神なのにわざわざ人間として地上に来られたのでしょうか? それは人間の“罪”のゆえです。
アダムとエバの時代から人間は罪を背負い、その重荷に苦しんできました。その時代からイエスの時代まで、神に罪を赦していただくためには定められた動物をいけにえとして捧げなければいけませんでした。その血によって罪は暫定的に赦されるとされていたからです。しかしイエスが自らいけにえとなり血を流すことによって、全人類の罪を代わりに背負い完全に取り去ってくださったのです。人の罪は人の血によってのみ完全に赦されるからです。そしてそのイエスの贖いを信じた者は神と和解することができ、神のもとへいけるようにしてくださったのです。
わずか30年の歩みと、わずか3年という公生涯を通して世界をここまで大きく変えた人物が他にいるでしょうか。これが今現在世界中の人たちが神を礼拝している理由なのではないでしょうか。
キリスト教をさらに知るために、イエス・キリストについて今日はお話しましたが、そのイエスこそがキリスト教のすべてなのです!
もっとイエスが語った教えや奇跡、その後の弟子たちの働きが知りたい方はぜひ新約聖書の福音書と使徒の働きを読んでみてください!
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以上、ひよこでした。
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