聖書が由来のことばをご紹介 その1「豚に真珠」「目からうろこ」

       
  • 2023/3/24
  • 最終更新日:2023/12/12
聖書が由来の言葉

聖書には神様やイエス・キリストのことが書いてあると聞いたことはあるけれど、クリスチャンでない自分は聖書を読んだこともないし、興味もない。たとえ読んでみたとしても、おそらくはさっぱり理解できないだろうし、おもしろくもないだろう。そんなふうに思っている人は多いかもしれませんね。
確かに聖書には難しいこともたくさん書いてあります。でも、わたしたちが日常生活の中で使っていることばの中にも、実は聖書に由来しているものがいろいろあるということをご存知でしょうか。そのようなことばがあると知れば、ほんの少し聖書を身近に感じることができるのではないでしょうか。

そのような聖書の中に出てくるエピソードやイエスの語られたお話に由来していることばの中からいくつかを取り上げて、その由来となった聖書箇所を見てみたいと思います。


Sakura
Writer ProfileSakura

プロテスタント教会付属の幼稚園に通い、最初に覚えた聖書の言葉は「神は愛である」。ミッションスクールを卒業し、クリスチャンになってン十年。趣味は旅行とウォーキングとパンを焼くこと。

豚に真珠

豚に真珠今回、最初に取り上げるのは「豚に真珠」です。

「豚に真珠」は一般的に、価値のわからない者に価値あるものを与えても役にも立たず、無駄であるという、「猫に小判」とほぼ同じ意味で使われていますね。
「猫に小判」は日本で古くから使われていて、上方いろはかるたの「ね」は「猫に小判」なのだとか。
それに対して、「豚に真珠」(英語では、“cast your pearls before swine”<豚に真珠を投げる>)は、聖書に中にあるイエスの教えに由来しています。

イエスの「山上の説教」

「マタイによる福音書」7章1~6節には、イエスの語った次のような言葉があります。これは、イエスが弟子たちや群衆に向けて語られた、「山上の説教」(マタイ5~7章)と呼ばれる教えの中の一つです。

人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にあるはりを認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
 
聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。

この中に「真珠を豚に投げてやるな」とあるのですが、なんだか難しくて、この箇所だけを読んでも、これがどのような意図で語られているのか、よくわからないかもしれません。このイエスの教えについて考えてみましょう。

「人をさばくな」という教え

粗探しする人最初に「人をさばくな」とあります。わたしたちはすぐに人のあら探しをしがちで、クリスチャンであっても自分の罪を棚に上げて、あるいは自分を善人だと思って、人の欠点や罪ばかり指摘することがよくあります。そして、自分のことはよくわかっていないのに、人のあらはよく見えるので、すぐに「この人はこういう人だ」と自分のものさしで判断します。それが、ここでいう「さばく」ということなのでしょう。

「兄弟の目にあるちり」は人の小さな欠点や罪で、それらはよく見えるのに、「自分の目にあるはり(大きい丸太のこと)」、つまり自分のもっと大きな欠点や罪には気づかない、そのとおりだと思わされます。「偽善者」と言われると耳が痛いですね。

わたしたちはみな大きな罪を負った存在であるけれども、神様の愛によって、神様のひとり子であるイエスがわたしたちの身代わりとして十字架にかかってくださったことによって、その罪を赦されている、それほどまでにわたしたちは神様に愛されているというのが、キリスト教の教えです。

「自分の目から梁を取りのける」というのは、そのようにイエスがわたしたちの身代わりになってくださったことによって、わたしたちの罪が赦されているということ、わたしたちがそれほど深く神様に愛されているということに気付くということなのでしょう。
そして、自分が神様の愛によって赦されているように、ただ相手の欠点や罪を指摘するのではなく、愛をもって相手に接しなさい、というのが、「人をさばくな」という教えの中のメッセージなのだと思います。

「真珠を豚に投げてやるな」とは

高価なプレゼントでは、上記の「人をさばくな」ということと「聖なるものを犬にやるな」、「真珠を豚に投げてやるな」ということはどのようにつながるのでしょうか。

ここでいう犬や豚は神様を知らない、あるいは神様を畏れない人を指し、聖なるもの、真珠(のように高価なもの)とは神様の愛(または聖書の教える福音)を指していると考えられます。
神様の愛を知り、福音を信じるクリスチャンが、愛をもって相手に接することによって、神様の愛を相手にも伝えたいと願っても、相手がそれを受け入れてくれるとは限りません。それは容易に想像できることだと思います。価値のあるものを与えられても、その価値を理解できない人は確かにいます。だから、相手の態度や状況を見極めることが必要になります。

ただ、そのときにも「あの人は豚だ」という決めつけによって相手をさばかないように注意しなければなりません。
「豚に真珠」ということばの中の「豚」には他人を見下すようなニュアンスがあると思います。しかし、このことばの由来となった「真珠を豚に投げてやるな」という聖句の前には、決して人を見下したり、さばいたりしてはならないという教えがあることも忘れてはいけません。この聖書箇所に触れると、相手をさばいていないか、まずは自分を省みなければ、と思わされるのではないでしょうか。

 

目からうろこ

目からうろこ2つ目は「目からうろこ」です。
何かがきっかけとなって、急に今まで知らなかったことがわかるようになったり、ものごとの本質や実態が理解できるようになったりすること、あるいは新しい考え方を得ることを「目からうろこ(が落ちる)」(英語では、“the scales fall one’s eyes”)と言いますね。
日常的によく使われることばですが、実はこのことばも聖書の中のエピソードに由来していると言われています。それは、いったい、どのようなエピソードなのでしょうか。

パウロとサウロ

福音(ふくいん)を宣べ伝えるパウロ新約聖書の「使徒行伝しとぎょうでん」は、イエスが十字架にかけられて死んでから復活し、昇天しょうてんした後のエルサレムにおける初代教会の成立、イエスの弟子(使徒)であったペテロたちの宣教活動、そしてパウロの伝道旅行などについて記したものです。
とくにパウロは伝道旅行において、ユダヤ人でない人々、すなわち異邦人に向けて福音ふくいん(神様のひとり子であるイエスが十字架上で死なれ、復活されたことによって、わたしたちは罪を赦され、救われたという喜ばしい知らせ)を語り、福音は遠くローマにまで及ぶことになりました。

福音を遠くの人々にまで宣べ伝える働きをし、キリスト教の伝道において功績を残したパウロは聖書におけるとても重要な人物です。パウロは新約聖書における「ローマ人への手紙」などを書いた人でもあります(ペテロとパウロについては、>こちらの記事でも詳しくご紹介しています)。このパウロはかつてサウロと呼ばれ、イエスの弟子であるどころか、実はイエスの弟子たち、クリスチャンたちを熱心に迫害する側の人物でした。ところが、あるとき、突然に回心し、大きな伝道の働きをする人物へと変えられたのです。

サウロの回心

サウロ(のちのパウロ)の回心はどのようにしてなされたのでしょうか。それはサウロが迫害の対象となるクリスチャンを見つけ出すためにダマスコという町に向かっていたときの出来事でした。ちょっと長いのですが、使徒行伝第9章を見てみましょう。

さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。彼は地に倒れたが、その時『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。そこで彼は『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねた。すると答があった、『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう』。サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。
 
さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、『アナニヤよ』とお呼びになった。彼は『主よ、わたしでございます』と答えた。(略)主は仰せになった、『さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう』。そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、『兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです』。するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、また食事をとって元気を取りもどした。

サウロの改心ここにあるように、サウロの目からうろこのようなものが落ち、彼は再び目が見えるようになったのです。この時、サウロはイエスの教えが正しいと悟り、それから福音を人々に告げ知らせる者となりました。そして、使徒パウロとして世界に福音を広めることに生涯をささげたのです。

「目からうろこ」の意味

「目からうろこ(が落ちる)」ということばは、現在では広く一般的な事柄に対して、なにかをきっかけにして、急になにかが分かるようになることのたとえとして使われています。しかし、このことばの由来となったエピソードから分かるとおり、もともとはキリスト教信仰における回心あるいは宗教的な目覚めを意味していたのですね。

サウロはダマスコでアナニヤに出会うことによって回心へと導かれました。わたしたちの周りにも、わたしたちに対してアナニヤのような働きをしてくれる人がいるかもしれません。わたしたちには知らないことがたくさんあります。それは、わたしたちの目の中にうろこがついたままになっているということでもあります。わたしたちは日々、さまざまな人々やものごとに関わる中で、ふとしたきっかけで、なにかに気づき、そして自分が変えられるという、まさに「目からうろこ」の経験をすることがあるのではないでしょうか。

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まとめ

いかがでしたか? 普段慣れ親しんでいることばが、じつは聖書に書かれたことばだったなんて、それこそ「目からうろこ」だったのではないでしょうか。聖書は世界のベストセラーと言われ、多くの人がこの書物から影響を受けています。一度手にしてみてはいかがでしょうか。
これからも聖書に由来していることばを取り上げていこうと思います。
ではまた。


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