聖書が由来のことばをご紹介 その2「笛吹けども踊らず」「砂上の楼閣」

       
  • 2023/5/26
  • 最終更新日:2023/12/12
聖書が由来のことば2

聖書はクリスチャンにとって最も大切な書物ですが、クリスチャンでない人たちにとってはただの分厚い本、かもしれません。実際、聖書を手に取ってみたことすらないという人はとても多いでしょう。でも、わたしたちが日常生活の中で使っていることばや慣用句の中にも、実は聖書に由来しているものがあると知れば、ほんの少しだけ聖書を身近に感じることができるのではないでしょうか。
前回に続き、今回も聖書の中に出てくるエピソードやイエスの語られたお話に由来していることばを取り上げて、その由来となった聖書箇所についてご紹介したいと思います。

●前回の記事はこちら


Sakura
Writer ProfileSakura

プロテスタント教会付属の幼稚園に通い、最初に覚えた聖書の言葉は「神は愛である」。ミッションスクールを卒業し、クリスチャンになってン十年。趣味は旅行とウォーキングとパンを焼くこと。

笛吹けども踊らず

笛吹けども踊らず今回、最初に取り上げるのは「笛吹けども踊らず」です。
「笛吹けども踊らず」ということばはよく聞くけれど、自分ではあまり使わないという人もいるでしょう。これは、一般的には、人に何かをしてもらおうと手を尽くして働きかけても、その人が動いてくれない、あるいは応えてくれる人がいないことのたとえとして用いられることばです。

「笛吹けども踊らず」(英語では、“We have piped unto you, and ye have not danced.”<わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった>)は、イエスが群衆に向けて語りかけた話の中に出てくることばが由来であると言われています。その話は「マタイによる福音書」11章にも「ルカによる福音書」7章にも描かれているのですが、ここでは「マタイによる福音書」のほうを見ていきたいと思います。

バプテスマのヨハネとイエス

バプテスマのヨハネ「マタイによる福音書」11章では、イエスが群衆に対してバプテスマのヨハネについて教える場面が描かれています。このバプテスマのヨハネとは、どのような人物なのでしょうか?
「預言者イザヤによって、『荒野で呼ばわる声がする、<主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ>』と言われた」、その人がバプテスマのヨハネです(マタイ3:3)。バプテスマのヨハネはあとから来る救い主たるイエスのために道を整え、準備をするという使命を与えられ、イエスより先に現れて、ユダヤの荒野で人々に罪の悔い改めと神の国について教えていました。そして、人々にバプテスマを授けていました。バプテスマとは洗礼のこと、すなわちキリスト教の信仰に入るための儀式をいいます。神の子であるイエスも、実はこのヨハネにバプテスマを授けられ、そのときに神の御霊がイエスに下りました。

イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。(マタイ3:16-17)

バプテスマのヨハネは、ある理由でユダヤの領主ヘロデを非難したために捕らえられ、獄に入れられました。イエスは、その出来事の後に宣教の働きを開始し、人々の病を癒やしたり、盲人の目を開かせたり、死んだはずの娘を生き返らせたりと、多くの力あるわざをなしました。さらに、当時人々から嫌われていた取税人や罪人たちとも食事をともにし、罪の悔い改めと神の国について人々に教えました。

バプテスマのヨハネのつまずき

バプテスマのヨハネはイエスが現れる前、あとから来るイエスについて、「わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない」(マタイ3:11)と人々に語っていました。しかし、獄中にあってイエスの働きを伝え聞いたとき、ヨハネには、本当にイエスは「きたるべきかた」(救い主)なのだろうか?という迷いが生じます。そのため、自分の弟子たちをイエスのところにつかわし、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と問わせたのです(マタイ11:3)。
イエスはその問いに答え、最後に「わたしにつまずかない者は、さいわいである」(マタイ11:5)と語ります。イエスよりも先に現れて、イエスのために道を整え、イエスにバプテスマを授けたのに、そのイエスにつまずいたヨハネ。イエスの教えやなしたわざが、「きたるべきかた」に対するヨハネの理解とは異なっていたということなのでしょうか?

ヨハネの弟子たちが帰った後、イエスはヨハネのことを知る群衆に向けて、ヨハネの偉大さについて語り始めました。おそらくはイエスを迎えるための特別な使命を与えられた預言者であるという意味での「預言者以上の者である」(マタイ11:9)と。そして、「『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである」(マタイ11:10)と。バプテスマのヨハネのつまずきは、荒野で宣教の働きをしていたヨハネを知る人々のつまずきにもつながるかもしれないし、ヨハネがどのような者であるかを人々に正しく理解してもらう必要があると、イエスは考えたのかもしれません。

「わたしたちは笛を吹いたのに」

イエスはバプテスマのヨハネについて語った後、群衆に対して、さらに次のように語りかけます。

耳のある者は聞くがよい。
今の時代を何に比べようか。それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、
わたしたちが笛を吹いたのに、
あなたたちは踊ってくれなかった。

弔いの歌を歌ったのに、
胸を打ってくれなかった』
と言うのに似ている。なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する。
(マタイ11:15-19)

ここにある「わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった」という箇所が、「笛吹けども踊らず」の由来と言われているのです。
神の子として、わたしたちの救い主としてこの世に来られたイエスと、そのイエスのために道を整えるという使命を与えられたバプテスマのヨハネ。どちらも宣教の働きをする中で、人々に罪の悔い改めと神の国について教えました。しかしイエスもバプテスマのヨハネも人々が抱く救い主や預言者のイメージとは異なっていたのでしょうか。彼らを受け入れようとしない、その人々の様子が「笛吹けども踊らず」だったのですね。

ヨハネは食べることも、飲むこともしない、いわば禁欲的に宣教を行っていたのでしょう。そのようなヨハネに対しては「悪霊にとりつかれている」と批判し、一方で、ときに嫌われ者の取税人や罪人とも一緒に食べたり飲んだりしながら宣教を行っていたイエスに対しては「食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ」と悪口を言う。どちらに対しても真摯に耳を傾けようとしない、ヨハネやイエスの宣教の働きに対するそのような人々の態度を、きっとイエスは残念に思っていたのでしょう。

 

「砂上の楼閣」

砂の城次は「砂上の楼閣」です。
「砂上の楼閣」ということばは一般的に、見かけは(楼閣のように)立派でも、(崩れやすい砂の上のように)基礎がしっかりしていないために不安定で長く維持できないことのたとえとして、つまり「見かけ倒し」の意味で使われます。また、そもそも砂の上に楼閣、すなわち高い立派な建物を建てることは現実的でないことから、現実味のないことや実現できないことのたとえとしても用いられます。
この「砂上の楼閣」(英語では、“house built on sand”<砂の上に建てられた家>)も、聖書にあるイエスの教えに由来していると言われています。

イエスの「山上の説教」

山上の説教「マタイによる福音書」5~7章には「山上の説教」と呼ばれる、イエスが弟子たちや群衆に向けて語られた教えがいくつも書かれています。前回、「豚に真珠」ということばがこの教えの一つに由来していることをご紹介しました。ほかにも、ほんの一部ですが、たとえば次のような教えがあります。

『隣人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、私はあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
(マタイ5:43-44)

『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
(マタイ5:38-39)

自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。
(マタイ6:1)

もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
(マタイ6:14-15)

「砂上の楼閣」の由来になったと言われるイエスの言葉もまた、「山上の説教」の箇所にあります。そのイエスの言葉を見てみましょう。
嵐で崩れる家

それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に吹きつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に吹きつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである。
(マタイ7:24-26)

これは「山上の説教」の最後の場面です。イエスは家の土台をたとえとして用いることで、自らの「山上の説教」、さらには神様の言葉である聖書の教えに耳を傾け、それらに従うことの大切さを説いていると考えられます。それらの言葉や教えを聞いて、かつ従わなければ、土台のない、もろい砂の上に自分の家を建てるようなものだと語っています。

いくつか例示した「山上の説教」におけるイエスの教えを見ただけでも、これらの教えに従うのはとても難しいと思ったかもしれません。確かにそうだと思います。でも、イエスはここで、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」になるためには、それらの教えをただ聞くだけではなく、従うことが必要だと説いているのです。

普段何気なく目にし、口にする「砂上の楼閣」ということば。その由来と言われる聖書の箇所を読んでみると、ただ「見かけ倒し」ということだけではなく、思いもよらないような、深い意味があることがわかります。

岩の上の家と砂の上の家

岩の上に家を建てるためには、まずゴツゴツの岩を平らにし、そこに杭を打ち込み、という工程が必要で、きっと楽ではありません。でも、その岩は家の土台となります。一方、砂の上に家を建てることはそれよりも楽かもしれません。しかし、そもそも砂の上に建てた家は完成する前にでも崩れてしまうことがあるものです。砂の上に家を建てる人はまさしく「愚かな人」です。現実として、砂の上に直に家を建てる人はなく、まずは砂の上に何らかの土台を据えることになるでしょう。

岩の上に建てる上記のたとえにある「家」をわたしたちの生き方に置き換えれば、家(建物)を建てるときには土台が必要であるように、わたしたちの生き方にも土台が必要であると思いませんか?いつも晴天が続くとは限らず、ときには大雨が降ったり、強風が吹いたり、あるいは台風がやって来たり、地震が起きたりすることもあると、誰もが知っています。わたしたちは、自分の努力次第である程度見栄えのする家を建てることはできるかもしれません。しかし、雨が降っても風が吹いても倒れない、揺るがない家は、しっかりとした土台の上にこそ建てることができます。わたしたちの生き方の土台はなんでしょうか?しばし立ち止まって、そのことについて考えてみてはいかがでしょうか。

いかがでしたか?普段よく耳にすることばが、実は聖書に由来していたと知って、ほんの少し聖書に興味を持っていただけたでしょうか?あるいは、聖書に由来するどのことばもキリスト教におけるイエスの教えに結びついていて、むしろとても難しい、よくわからないと思われたかもしれません。しかし、聖書は世界のベストセラーと言われ、多くの人がこの書物から影響を受けています。拾い読みから始めてもかまわないので、一度手にしてみてはいかがでしょうか?

聖書に由来していると言われることばはほかにもありますので、次の機会にまたご紹介したいと思います。
ではまた。


★記事中のいくつかのイラストは、素材サイト「Christian Cliparts」さんから使わせていただきました

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